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《第3話 車道に立ちはだかる魔術師》(3)‐1
(三)
結局。「ケンカの仲裁」騒ぎの残務処理(ケンカ以外の他世界から過干渉を受けていないか周辺調査するなど)をしていた為、事務所へ戻って来られたのは午後六時過ぎだった。
鷹一は術を使い直接、社長室へと出た。そこはもう真っ暗だった。彼は周りに人間がいないので、出入り口のドア横にある明かりのスイッチを術を使って入れた。途端にパッと白い光が点く。ガランとした自分の仕事部屋が映し出された。
そのまま重厚感が漂う仕事机までやってくると、革張りの椅子へ腰を落とした。それから宙に軽く手を振う。まるで指揮者がタクトを振るような仕草だが、その手にA4ほどの紙が現われる。そしてインテリアのように置かれていた羽ペンを手に取ると、先ほどの「ケンカの仲裁」について、詳細と解決に至るまでを書き記した。但し、文字はこの世界の言語ではない。天上界で使われている文字。それを天上界の紙と筆記具で記した。もっとも筆記具は、自分の翼から羽を一枚抜いてペンにした。自分の羽は丈夫で、わりと大ぶりだった。軸もペンとして握り易く、文字も細くしっかりとしたものが書ける。だからといって、あまり抜かれても困る。上司などは「あ、書くものがないから、ちょっともらいますね~」と、気軽に抜こうとするので、その度に「パワハラです」と宣言をし、その無礼な手を撥ね付けていた。
十五分ほどで報告書の作成を済ませると、その紙をまた手に取り、今度はそれを軽く宙へ投げ放った。紙は白い光を一瞬放つと、すぐに跡形もなく消えてしまう。
「もうあの方も居住宮へと帰られただろうから、目を通すのは明朝だろう」
外事案件についての報告は、当日厳守という決まりがあった。その為、彼はあの情けない妖魔の王子が仕出かした案件について『厳重注意をし、始末は付けた。他世界関与は無し』という事を形式的な文章の羅列にしただけ。実際に起こった事はあまりにくだらない。報告するのも、又、された方も「別に要らない」と思うことだろう。しかし、一応報告はしないと自分自身が納得できなかったので書くだけ書いた。
次にパソコンの電源を入れた。立ち上がりをしばらく待ち、ウェブソフトを開く。
「殿下の話では」
見慣れた検索エンジンに〝welcome music office S〟と単語を打ち、エンターキーを押してみた。すると、自分の事務所に所属しているアーティストたちが、トップページにズラッと載った画面が出た。写真を切り張りしコラージュにした、かなり凝ったデザインで非常にセンスの良いものだった。非公認であるが、いや、非公認だからこそ、製作者の想いが伝わってくる。そして注目すべきはこのページの閲覧者数。このホームページが作られたのが約一年前。その始めた日時の隣には、来場者数のカウンターが設置されていた。もう五万以上だった。つまり一日平均でのべ百三十人ほど訪れている計算になる。
彼はしばらく画面に集中した。それを見ていると、先程熱く語っていたファンの若者を思い出す。彼のような想いを懐く人々が思いの外世の中には大勢いる。このようなサイトまで作って語り合っている。そう改めて思うと、自分も気持ちが熱くなった。
「案外、西園寺の仕事も大事にすべきものなのかも知れない……」
つい思いに耽っていると、壁時計が十九時をさしていた。
「今日はあと一件あったな」
鷹一はパソコンの電源を落とすと、席を立ち移動のための術を使おうとした。その時、部屋の外から数人の話し声がし、ここへ近づく気配があった。そしてこの部屋の前で足音が止まると、ノックもされずに突然ドアが開いた。
「あら? 兄さん、居たの?」
開け放たれたドアの向こうには、妹の芽衣子と若い小柄な男女が並んで立っていた。
「あ、タカイツさんだ~。久々と~じょ~」
「社長。おつかれさまでっす」
若い男女は朗らかで可愛らしい顔立ちをしていた。その顔に喜びの表情がパッと生まれると、彼らは一目散に鷹一の元へと駆け寄ってきた。
「良かった~会えて。もう二ヵ月、タカイツさんに会ってないじゃないですか。その間、五曲も出来たんですよ」
若い男性、というより彼は未だ未成年に見える若者だった。姿形は細身で、ふわふわな明るい茶色の髪をしている。服装は、ラフなチェックのシャツにブラウンのジャケットを羽織り、黒のジーンズを履いている。顔立ちは整っていて、柔和な笑顔をし、好青年に見える。ただし声が男性にしてはやや高めで、その要素から初対面の人物には、軽い人物に見られてしまうこともある。
「コガネ君の曲、今回もすっごく良いんです。だから早く社長に聴いて欲しくって。いつ会えるか芽衣子さんに相談しに来たら。今日会えたーっ。カンゲキ」
一方、女性、というより彼女も高校生に見えるような容姿をしていた。腰まである真っ黒な長い髪に、ファーが首元にあしらわれている薄手のセーター、丈の短いプリーツスカートという格好をしている。しかし彼女も〝コガネ〟と呼ばれた若者同様に、立派な大人で、共に来春大学を卒業したら、本格的に音楽活動へ打ち込む予定だった。
「一応、シロちゃんのアイデアで今回はテーマ性があって。春夏秋冬なんです。僕たち春には卒業でしょ~。だから最後の曲は春爛漫って感じで、春から始まって春で終わるんで~す」
「コガネ君が曲をピアノで伴奏して、歌詞はいつも通り、事務所のみんなに、言葉とかアイデアとか出してもらったのを織り交ぜて、二人で考えましたっ。みんなの言葉、すっごくカッコ良くてステキで。もうカンゲキでソッコー二人で作り上げたんでーす」
と、シロと呼ばれている方が「じゃーん」と言って、持っていた布の大きなバッグから透明のプラスチックケースを取り出した。中には真っ白にコーティングされた表面に黒のマジックで〝らんたん・デモ〟と丸っこい文字の書かれたCD‐Rが収まっていた。
「と、いう事で。僕たちの卒業記念も兼ねたスペシャルな歌」
「絶対楽しいから聴いてくださいっ」
コガネとシロは嬉しそうな笑顔を並べ、プラスチックのケースを鷹一へ差し出した。それから「お願いします」と、勢いよく斜め四十五度に腰を屈め、頭を下げた。
「四季を巡る」
今の日本は季節が明確に区別されている。その時々に感じた思い。情景。それを歌として綴ったということなのだろう。
「君たちの純然たる青春、か」
しかも彼ら二人の若い感性の詰まった瑞々しい言葉と、それを手助けする数々の歌を創り上げてきた大人たちの言葉が、楽曲の中で素晴らしい相乗効果を織り成しているに違いない作品。おそらく聴きごたえがあり、とても興味深いものになっているだろう。シロとコガネの二人組ポップスユニット〝ランタン〟は、スカウトした時から言葉選びの感性が鋭いアーティストだった。曲の可愛らしさや軽快さの中に、心情と背景が鮮やかで、実は深い表現をしている。聴いている者の心を軽くさせ、聴き終わるととても心地よくさせる楽曲を歌っている。
そんな彼らの新曲。妖魔界のファンほどではないが、期待に胸が膨らむ。そんな気持ちが分からなくもない気がした。
鷹一は表情を柔らかくし、彼らからCDを受け取った。やはりアーティストは歌で、作品のクオリティで、判断されるべきなのだ。そうすればそこに必ずファンがついてきてくれる。そう。あの妖魔のお気楽な王子のように。
「ジュンゼンたる……」
「セイシュン……」
気が付くと、正面の二人が目を大きく見開いて鷹一の方を見ている。
「やっぱりサイコーですねーっ」
「ちょーおもしろ~い」
そしていきなり二人は大笑いを始めた。
「兄さんて、何だかんだでやっぱり恥ずかしいのよね。ちょっと」
二人の脇で、妹が鷹一の方へ冷やかな視線を向け、呆れたようにぽそりと呟く。
「たしかに僕たちの大学四年間を通して思い出になったことを歌にしてみたけど」
「でも~。そのものズバリで言われると、恥ずかしいってゆーか。でもタカイツさんが言うと、なんだかすご~~く新鮮ん~~。もうなんか少年の心ってカンジですね~」
「さすが社長っ。僕たちよりジュンゼン、ううん、純粋ぃ~。僕達も見習わないとだよね、シロちゃん」
「だよね。コガネ君」
と、言われしばらく笑われた。だが鷹一自身には、どこがおかしいのかまったく見当がつかない。純然たる青春、という言葉に、何の面白味があるのか……? それとも人間に向ける言葉の表現方法に間違いがあるとでも? だとすれば純然ではなく、純情、生粋、純粋? いや、どれも鷹一の中ではピンとこない。
「ったく。また眉間に皺を寄せて。どうしてこうなっているか分からないって顔だわね。兄さんは背中がむず痒くなるって感覚が無いのかしら」
そんな様子に、妹は更に冷ややかな表情を向けた。
「背中が痒い? 言葉の選び方によってそうなるものなのか。私の方こそ、時々、人間の感覚について行けない」
彼のセリフに妹はますます顔をしかめた。
「本当に、本物の天使サマは純情純粋過ぎね。人間どころか誰だってついて行けないわ」
楽しそうに笑い合っていたコガネ、シロ達が「純然たる青春ん~」「ショウワなカンジぃ~」と、勝手に盛り上がり始めた。その脇で妹からなぜか純情純粋過ぎの天使と呆れられている。彼女は自分に羽が無い事に対し、幼少の頃に大変な不平不満を両親に言っていた。さっきの発言は、今さらその腹癒せ? しばし考えてみるがそれは違うような気がした。
「純然たるものは純然だ。そう感じたのは私なのだから、そこにケチを付けられる筋合いはないと思うが」
「もういいわよ。兄さんて本当に変な所が天然過ぎて、聞いているこっちが恥かしくなるわ」
他者の感情にまでいちいち文句をつけてくる妹に「ならば私の感じたことを君が正確に言い表せるのか」とでも反論しようとした。だがこれ以上の論議は時間の無駄だと思われた。昔から妹とこうした言い合いを何百回と繰り返してきたが、有意義な結論に達したことは稀。鷹一にはまだこれから予定がある。余力を残しておく必要があった。
そして鷹一が事務所を出られたのは、結局、妹らと小一時間ほど話をしてからだった。彼もあの場にいた三人へ非公式のオフィスS所属アーティストのファンサイトを教え、ランタンのCDは近いうちに聴いたのちに感想を伝えることを約束した。
「じゃタカイツさん、またねー」
「ぜったい楽しいと思うからー」
コガネとシロは屈託のない笑顔を見せて帰っていった。
「私も帰るけど。あ、それから警備員は、明日から二人来ることになったから」
「二人? 一人で十分だと言ったはずだぞ、芽衣子」
「何言ってるの。午前中にやって来た変質者、見たでしょ? あんなのに入られたら危ないわよ? 次は刃物でも持ってこられたらどうやって立ち向かうのっ」
「こちらも手近な所にある硬質な物を手に取って応戦すればいいだろう」
「応戦? ちょっと兄さん、本気? そんな事で対処出来る訳ないじゃない。非力なアーティストが戦える訳ないでしょっ。彼らを危険な目に遭わせる訳には絶対いかないのっ。大体、手近な硬い物っていうけど、それが近くに無かったらどうするの? 第一、ここは天上では無いのよ。剣も術も使ってはいけないの。だから何と言われようとも警備員は午後十一時まで必ず常駐。その為に交代要員を含めて四人契約。そこは譲らないわよ」
「芽衣子っ」
「絶対それだけは引かないんだからっ」
鷹一は話し合う余地を与えられず、妹に押し切られ帰られてしまった。
「まったく。ああいう頑なな所は本当に父上とそっくりだ」
そんな愚痴をこぼしての退社だった。
そして約束をした人物が待つ場所までは徒歩で行ける距離だったので、歩いて向かうことにした。
大通りから片側一車線の細い県道へ折れると、彼は顔を険しくさせた。車通りは無かった。薄ら寒さを醸す蒼白い外灯が規則的に並び、遅くまでやっている通りに面した喫茶店の明かりのみが道路へ漏れていた。あとはシャッターの閉まった商店や建物が、道路を挟んで軒を連ねているだけ。ガランとした田舎の寂れた夜の市街風景だった。
鷹一はそこに足を踏み入れ、歩道を少し進んだところで止まった。
「――ふっふっふっ。待っていたぞ大悪魔。此処で逢ったが百年目」
暗がりの奥から声がした。目を凝らしよく見ると、暗い道路の先で見覚えのある男がぽつねんと立っていた。
しかしこの人物が二度と近づかないようにして欲しい、という依頼も従弟へ言っておいたはず。彼はしくじったのか? いや、そんなはずはないと思いたい。だが、目の前にはまた出現している。それは事実。
鷹一は軽くため息を吐いた。この世には本当に不可解な人間もいるものだ。大体、会って百年目どころか、今朝会ったばかりではないのか。
闇のはびこる道の先に再び現われた自称魔術師の男。彼は相変わらずこの寒い秋の夜長に、品質の良い背広を着ただけで不敵な笑みを浮かべ立っていた。むしろ今夜は冷え込みが強い。鷹一はコートに手袋、薄手のマフラーも着けていた。対するこの人間は、本当に人間として大丈夫なのだろうか。
「さあ悪魔、観念しろ。今宵はワタシの真の実力を見せてやる。それを目の当たりにし、我が魔力を肌で感じれば、恐れおののき、ワタシに付き従わざるを得なくなるだろう」
紳士は懐に手を突っ込むと、内ポケットらしき所から黒い手帳を取り出した。それは表紙が反り返り、かなり使い込まれているように見えた。
「ここに記された言葉と陣で、まずは貴様の正体を明かしてやる」
中年の紳士は興奮気味に鷹一を指差した。目は本気で、その目には最早鷹一しか入っていないようだった。
「そこの人。貴方が立っている場所は普通に車道だ。危ない」
「私は選ばれし者。悪魔の指図など受けはしない。そう。指図をされるどころか、私が貴様を使役し、いずれは偉大な力を示す真の魔術界の王となろう」
「いや。私は指図をしたのではなく、忠告をしている。本当に危いぞ。道の真ん中で騒ぐのは」
色々な意味で。むしろ周りが見えていない彼自身が、一番危険だと思われた。
「……ん。ほら。車がこっちへやってくる」
「はっはっはっ。何でも掛かってくるがいい」
紳士が振り返るとオレンジ色のライトが二つ迫っていた。しかも普通乗用車より高い位置が明るい。大型ダンプのようだった。
「避けねば確実に死ぬぞ、大道芸人」
「ワタシは何人からも逃げ出したりはしない」
「本気なのか?」
トラックに跳ね飛ばされたら通常は死ぬと思われる。それがわからないのだろうか。
「貴方が命を粗末にする事も大きな問題だが、轢いてしまう方に要らぬ罪を作らせる事は絶対にしてはならない」
「ふっふっふっ。愚かな人間がこの地上において、またくだらぬ罪を犯すというのか。実に人間とは愚かな生き物なり」
「いや。人類全体の話ではなく、貴方が愚かなせいで必要の無い交通事故が起こる、と私は言っている」
仕方が無いので鷹一は、車道のど真ん中で額に人差し指、中指、薬指を軽く当て首を振り「力の無い下等な人間が何人掛かってきても敵では……」とか憂いている男の所まで走って行き、彼の腕を掴む。
「貴方は昼間のうちに眼医者へ行かなかったのか」
車が見えていなかったのだろうか。鷹一は男の腕を掴んでそのまま引きずり、なんとか歩道まで連れてきた。
数秒後。大型ダンプは無事に道路を通過し、突き当りを何事も無く左折していった。惨事にならずに済んで良かった。
「まったく。いい大人が道路の真ん中で立ち止まり、わーわーとわめくものじゃ無い。他人に迷惑を掛けるだろう」
「ふっ。あんなものは所詮はただの鉄の塊。科学文明が作りだした物など、子供が喜ぶ玩具と同じ。魔法文明の中で生まれしものこそ、聖なる遺物」
「科学でも魔法でもそんな事はどうでも良い。私が言いたいのは、公共の場ではルールとマナー、そしてモラルを守って欲しいということだ」
鷹一は男の腕を乱暴に突き放すと、ダメな大人の例として真っ先に挙げられるような人間を睨み上げていた。実際、自称魔術師は背が高く、一八〇センチを優に越えている。自分より一〇センチ以上大きい。なんとなく迫る壁のような人間だった。
しかし壁だろうが鉄塔だろうが関係無い。他人に迷惑を掛け、自らの命を粗末にする事は許されない。それは人間だろうが他種族だろうが、あらゆる生命が守らねばならない倫理観なのだ。だから鷹一は本気で怒っていた。
けれど目の前の黙っていれば紳士に見える人物は「生まれた時から高潔で尊い魔術師の血を受け継いだ」とか「このワタシに口答えするとは」とかブツブツ言っている。反省どころか鷹一の言葉など、全く聞いてはいないようだった。
それを見た彼は、この日一番深いため息を「は~」と吐いた。そして。
「そこの人。貴方はこんな話を聞いたことはないか? 昔、さる徳の高い人間だった方がおっしゃっていた。〝言っても分からない、説明をしても理解できない人はいる。そういう人は、もう放っておきましょう〟と。たしかに説明を施す者の方が、レヴェルが高ければ、貴方をどうにか出来るかも知れない。だが私では、貴方をどうにも出来ないようだ。だからこれ以上、私が貴方を構っても意味は無いと思われる。だから貴方も、もう家に帰りなさい。家くらいあるだろう」
これが今、鷹一の出来る精一杯だった。それから男を一瞥し「失礼する」と言って、再び目的地へ向かい歩き出した。あと少し行けば横断歩道がある。それを渡り、更に細い路地へと入れば、待ち合わせをしている従弟の興信所はすぐだった。路地の奥に建ち並ぶ雑居ビルの一つ。そこが目的地だった。
「おのれ悪魔っ。逃げるつもりかっ」
「だから。私は悪魔では無い。もう寒いから帰りなさい」
冷えびえとした風が二人の間を抜けていく。この寒さは、人間だったら本当に防寒着がなければ耐えられないほどだと思われる。鷹一も人間界に居る時は、体感を人として不自然にならない感度に調節している。今夜はきちんとした初冬の服装をしている。しかし目の前の男は、立派に仕立てられたスーツのみで屋外を闊歩している。
本当に色々な意味で心配な生き物だと言わざるを得ない。大丈夫なのだろうか、この男は。そんな存在を相手にしているだけで、鷹一は相当な疲労感を覚えた。この人に本気で気遣ってくれる人間はいないのだろうか。いや、いないからこそ、こんな世迷言を言う者となってしまったのだろう。最早憐れみさえ感じる。そして、自分はこんな面倒をさっさと退き、屋敷で待つ愛妻の元へすぐにでも帰りたいと思った。
(アンナはもう眠ってしまったのだろうか)
愛らしい妻の微笑みが脳裏に浮かぶ。彼女のことを想うと、こんな面倒は全て無視し、天上へ帰ってしまいたいくらいだった。いや。もうこの際、こんな妙な人間は放っておいて帰ってしまおうか。
「ん。なんだ。あれは……?」
妻へ思いを馳せ、本気で全てを無かった事にしようとした時だった。横断歩道の手前に見える明かりが漏れている喫茶店の先、街灯の無い道の先に広がる闇の奥で、おかしな気配がした。
「誰かいるのか」
闇の広がる先には、電車の橋桁が左右に伸びていた。その高架橋の上に何かが居る。微かに不思議な力の気配を感じた。だが目を凝らしても視覚では分からない。かろうじて黒い影に映るだけだった。それに。
「何の力だ……?」
鷹一は感覚を人間に調整したままだったので、気配の正体を探るには限界だった。彼は姿だけは人間を保ち感覚器官を元の自分へと戻し、改めて闇の先を見た。
「あれは、人間の血脈によって継いでいる力……?」
今度はしっかりと、黒い影が、ぼんやりとした青白い光の膜で包まれているように見えた。その青白い光の膜の正体は、黒い影が有する本物の「ちょー能力」の波動。おそらく力を放出している状態の為、それが肉体を取り巻いているように見えているのだろう。
「あの人物こそ、本物ではあるまいか」
昼間。藤島と話をしていた、ちょー能力者、つまり特殊能力。人間は集中力を磨き上げると、智慧が表われ、様々な能力が啓かれる。だが、それは各々が修行をして、やった者に集中力が身に付き、智慧が表われ、己のみが得られるもの。
だが別の方法で、特殊能力を持つ場合もある。例えば突出した身体能力。これは血筋や血脈、つまりDNAにより、次世代へと受け継がれてゆくものである。簡単に言えば、白髪の多い家系は若い頃から白髪が生える。目鼻立ちが父親とそっくり。四肢が長いのはこの家の特徴だ、等である。
それが走るのが早いのは母親譲り、霊感が強いのはおばあちゃんの血を受け継いでいるから、となる場合もある。前者は、もしかしたら原始時代に野山を駆け、高い走行能力を得たのが原因だとか、考えられる。
しかし後者は、何が原因でそれを体得し、血によって受け継がれるか、よくわからない事が多い。だが、いずれにしろ特殊能力が過去においてどのように得られたのかは、それぞれに必ず原因がある。しかしその原因を探るには、原因を得た所を実際に見でもしない限り本当のところは分からない。せめて歴史学者が一つの事件を繙くような、深い分析をする必要がある。その為、必要に迫られない限りはあまりやらない。むしろ身に付いている特殊能力をどのように扱い、発展させるか。特殊能力を持つ者はそちらに重きをおく。扱い方を口伝や書に残し受け継がせる。それが先祖伝来の秘技などと呼ばれる類いである。そのような一族が現代の人間界にもいる。特に日本では、呪術師、陰陽師、占い師、霊能力者、イタコ、巫女、などと呼ばれている。
しかも血脈で受け継がれていったとしても、必ずしも表にあらわれるとは限らない。その代によって特殊能力が弱く出る者、その逆に、異常な強さを持つ者も出てくる。交配によって、能力が抑えられたり、又は、増強されることもある。血筋で受け継がれると言っても、かなり不安定な能力でもあった。
そして今、鷹一の前に現われた黒い影は、自分の持っている能力をそれなりに理解し、使いこなせる特殊能力者のようだった。こちらとしては、どんな能力が発揮されるのか分かりかねるが、相手は自分の力をしっかりコントロールし、今はそれを内できちんと抑えているようだった。抑えられるということは、自分自身の意思でその抑えているものを放出できるという事になる。
黒い影からは、青白い力の膜の気配以外に、粘着質を帯びた負の波動も感じられた。それは俗にいう敵意や闘争心。
「ネクリアード、か」
鷹一の背後から厳かな声がした。例の自称魔術師の声だった。
「奴を出してくるとは。あの男も味な真似を」
彼はそう言って〝くくくっ〟と笑った。だが鷹一にとっては笑い事では無かった。
高架橋に立つ正体不明の人物は、今にもなんらかの力を解き放ちたい、と言わんばかりに闘争心を高めている。それをこちらへと向けてきているのだ。これは普通に考えて危険な状況である。
「知り合いなのか」
「魔術師の一人」
「魔術師……?」