** ** ** ** **
『このねぇ、魂たちはねぇ、ぼくらがねぇ、もらっちゃうの。ねぇ。だからねぇ。代行はねぇ。邪魔しちゃだめなの。ねぇ』
「ふっざけやがって。いい加減にするンだよっ」
『いい加減はねぇ。しない。ねぇ』
大雨が降り仕切る夜半過ぎ。天川市の外れの上空。水沢山の麓辺りだった。そこに深蓮水蓮の兆しが確認された。そう報告を受け、調査にプレンティスは向かった。
彼女にとっては年に一度、奴を人間界から退くという定期的な行事のようなものだった。人間界の日本では旧盆になると、地獄へ堕ちた魂が生前住んできた場所へ一時帰宅を許される、という特例法があった。本来は気の遠くなるほどの長い時間、業の清算を地獄でしなければならない者たちに骨休めが与えられている特別な期間だといえた。
しかしそんな地上へ戻った魂を狙って物の怪・深蓮水蓮がどこからともなく現われる。奴は地上へ戻った無防備な魂らを食い荒す習性があり、食べられてしまった魂はその日の日没までに物の怪の腹から救出しないと、奴と同化吸収され深蓮水蓮の一部となってしまう。そうなってしまうと永い時を深蓮水蓮として生き続ける羽目になってしまうのだった。
だから特殊行動班は奴を叩きのめして安全な旧盆を迎えさせる事が使命の一つだった。しかも何気に深蓮水蓮は粘着質の影のような存在でそこそこ強い物の怪。だからこそ毎年特殊行動班が相手をしなければならない。
しかもその正体は人世に蔓延る怨念や憎悪などが形を成している、のかもしれないという未だ未知なる存在だった。起源もよくわからなければ、一度退くと以降は現れない。だがまた翌年の旧盆近くになると現われる。
「まったく、何なんだいっ。このしつっこいヤローは」
「そういう習性の何か、としか言えないッスよね」
正体が分かれば発生の秘密も解ける、というのであればそれも探る。けれど発生の瞬間もどこから現れるのかも分からないので、結局、特殊班が選んだのは「出てきたらぶっ潰す」ということにした。彼らにしてみれば調査に時間を割くよりも、その方が簡単な事だった。
そして深蓮水蓮が今年も現れる時期。丁度、旧盆の十日前後である七月末。奴を目撃したという情報があり、それを上役のユーディア最高執行役から齎された。
しかしプレンティスは奴の気配を未だ感じてはいなかった。もう何十年と相手をしている物の怪である。しかも毎年、飽きもせずに粘着質のべったらとした気色悪い存在感を放ちながらどこからともなく現われる。その気配を今年はまだ感じていなかった。
けれど上役からの命令なので仕方なく、見間違いならそれはそれでいいし、もしもということがあれば一大事でもある。深蓮水蓮は稀に通例の状態で現れる事をしない年もあったりする。だから念のための確認はした方が良いと彼女自身も思い、天上から人世へと舞い降りた。
だが。今目の前に居るのは……。
「オマエさんは何なんだい? 天上人じゃあないンですかい?」
『そうだよ。ねぇ。ぼくはねぇ。天上人だよ。ねぇ。でもねぇ。少しねぇ。ちがうんだよねぇ』
真っ黒な影だった。しかし何かの投影ではない。二メートルはある人型の影そのものが単独で目の前に現われたのだった。
「な、何だいっオマエさんはっ」
『ぼくはねぇ。モフィルドの従僕ってねぇ。呼ばれてるの。ねぇ』
「モフィルド……」
復唱した時には銀色の大鎌をプレンティスは手に握っていた。
『でもねぇ。貴方がきたらねぇ。もうねぇ。死んじゃうからねぇ。さようならなの。ねぇ』
影は大きく両腕を広げ、それを一重の輪にし、彼女の体を一気に拘束してしまう。
「アンタ、どういうつもりだいっ!?」
だがその時。ザザッと疾風が影とプレンティスに吹き付けた。それは軽くて羽のようなものなら、簡単にさらわれてしまうような強くて雄々しい風だった。
しかし真っ黒い影は掻き消されることは無く、『彼女』を捕えたままどんどんと膨張していった。まるで風船が膨らむように大きくなり、見ている者が今にも破裂しそうだと緊迫感と恐怖を掻き立てられる勢いだった。もういつ大きな音を立て破れてしまうのか分からない。
『彼女』はその膨らんだ影によって体が相当に圧迫されていた。息苦しさは最早、呼吸を出来ないほどになっている。しかしその中でも自らの体に黄金色の光を纏わせた。光の術だった。邪気を退き、決して自分と他の生命をも傷つけない術。
影は自らを膨らませ破裂するつもりのようだった。できることなら、それを止めさせたいと彼女は思っていた。しかしこの状態からはそれももう難しい。
おそらく破裂すると彼女、プレンティスにも危害が加わる。だから可哀相な影は諦めるしかなかった。
「止めるンだよっ」
『ぼ、ぼぼぼぼぼくはねぇぇぇっ。これでねぇぇぇっ。いいんだよねぇぇぇっ』
「従僕者だからってねっ、そこまで主人に義理立てする必要はないンだよっ」
『ううあああああっ。もうねぇっ。死ぬねぇぇぇっ』
「止めるンだよっ」
黄金色の光を纏う『彼女』を、むぎゅぎゅぎゅっと一気に膨らみを加速させた黒い物体が、とうとう全て消し潰してしまう。
「な……何やってンだいっ」
プレンティスは大声で叫んでいた。闇も。嵐もすべて貫く声で。
だがその叫びは、漆黒の空に走った稲妻が見えた直後、ドンッと全身に響くほどの大きな爆音で掻き消されてしまう。
「殿下ーーーっ」
プレンティスは目の前の光景に悲鳴を上げていた。影は破裂し、飛び散っていた。その中心に、チカチカッと紫色の閃光が見えた。まだそこには『彼女』がいて、救い出せるかもしれない。プレンティスはそれに向けて、光の力を籠め、守護と慈悲の念を込め、真っ白な雷を迷わず落としたのだった。
** ** ** ** **
これはやっぱり。自分が弱かったことがそもそもの原因だと今でも思っている。その気持ちが強すぎて。堪え切れず、微笑むことも出来やしなかった。「大丈夫ですか? 今にも死にそうな顔になっていますよ」
「……申し訳ないね。どうしても気持ちがついて行けなくてね」
「あまり根を詰める事はお勧めできません。……少し待っていてください」
水晶玉を三段重ねにした座布団の上に乗せ、再び神力を使って術を掛けようとしていた紅の魔道士が、寸前でそれを止めた。替わりに立ち上がり、屋敷の主人へキッチンを借りたいと申し出た。
「私、少し何かを作ってきます。すぐに出来ると思いますので、それまでは少しお休みをしていた方が良いと思います」
「ありがとう……」
そう言って部屋を出て行った。彼は発言が少々皮肉ってはいるが、常に周囲を見渡し、誰にでも心配りの出来る人物だった。
そしてそれは――あの人も同じ。いつも周りに気を配っている。いや。あの人の他へ対する心を砕く慈悲の心は、それ以上に、ありとあらゆる生命に惜しみない素晴らしい慈しみだった。それを以って見守っている。
けれどその偉大で素晴らしい慈しみとは別に、あの人と自分は、お互いとても個人的な想いで結びついていた。お互いに対してお互いがいないと、本当に悲しく、苦しくなってしまう。そういう絆。お互いにお互いを深く欲してしまう「弱さ」を齎す関係。愛し合う夫婦。
「アレックス。君は本当に大丈夫か」
ランベルセには幼馴染みの姿が、いつになく痛々しく、そして脆くも見えた。憂いというか儚い。挫けそうな女性のように見えている。アレックスは元々華やかで美しく、線の細い容姿でもある。だから女性のように見えなくもない。しかしそういった風に着飾れば、の話だが。
「……悪いと思っている」
「そうではない。私は君をとても心配しているだけだ」
「パルティシオン……」
室内はいつの間にか自分と彼だけになっていた。その彼が「悪い」と自分自身を責めているようだが、どの部分をそう思っているのか、どうしてなのか、と尋ねる気持ちにはなれなかった。
「パルティシオン、僕は」
覗き込んでいるアレックスの顔は悲しみに暮れている。本当に心配だった。
一方のアレックスは、未だ気が付いていなかった。友人の顔が厳しく見えているのは、こんな大それた事態を引き起こしてしまったから。それに対して何もしていない自分に、友と言えど大変怒っている。天をも巻き込む一大事。その責任を果たす素振りもしていない。
友人はいつも少し厳しい表情というくらいであった。そして理路整然とした言葉と卒の無い動きで、天上界を実質まとめ上げている。しかし今は苛立っているようにさえ見えた。
無理もなかった。目の前にいるアレックス自身も、もうほとほと限界が来ていた。苦しさで胸が押し潰されそうだったし、哀しみで声を上げて泣きたくもあった。本当は夜送舟艇の保管庫で友の姿を見た瞬間に、そこで大声を上げて泣きたかった。苦しさ、哀しみ。そして何よりも自分が弱かった事が辛い。辛過ぎる。それを吐露したかった。
「――プレンティス。もうそれ以上は無理なんじゃないのか。アレックスをやっているのは」
「パルティシオン……」
もう小さく微笑んで応える事も出来ない。自分は彼の言う通り無理だった。これ以上――夫を演じていることは。
「……殿下が。夫がわたしを守ってくれました。けれど。替わりにあの方が連れて行かれてしまった。だからわたしはわたしがとても許せなくて」
華美な姿をした上品な天界貴族は白い光に包まれると。やがて背中に真っ白な翼を負ったしなやかで見目麗しい女性の形へと変わっていった。
「どうしたらいいかわからない。もう。どうしよう」
翼同様に真っ白で裾の長い衣を纏う長い金髪の美しい天使が、傍らで自分をじっと見つめる友を見上げた。
「助けて、パルティシオン。侯爵殿下を」
そして堰を切ったように彼女の瞳から涙が一気に溢れたのだった。
ランベルセは夜送舟艇の収納庫で幼馴染みに会った時からアレックスに違和感を持っていた。彼は品が良く、落ち着いた雰囲気を常と醸している。生まれ持っての品位も高く、貴族の子弟としての優雅さも備わっていた。しかし儚さ、というものが取り巻いたりすることは一度も無かった。どんなに悲しい事が起こったとしても、悲愴感を抱いて憐れむ事はあれど、自分自身が崩れてしまいそうな脆さは無かった。そういった雰囲気を纏っていたのは『彼の妻』の方だった。
プレンティスは幼い頃に目の前で二親が命を奪われる、という陰惨な場面に遭遇した。その為、一時期はまったく表情を無くし、言葉もしゃべらなくなってしまった。そんな彼女をランベルセの両親は本当に心配していた。そして彼女を公爵邸で引き取ったのだったが、彼女はその日のうちに自分の生家へ戻ってしまったのだった。プレンティスは〝両親と一緒に住んでいた思い入れが強い場所から離れたくない〟と、言葉を取り戻したと共に今度は屋敷に引き籠ってしまった。
以降、彼女は身の回りの世話をしてくれる女性と静かにひっそりと生活をしていた。ランベルセの母も時々様子を見に出掛けてはいた。
そして幾年月が経ち、幼馴染みのアレックスが妻を迎えるということで、そこで数十年ぶりに彼女とも再会することになった。
しかしその時に現われたのは、今まで見たことが無いほどに美しい女性へと成長した彼女だった。正直に言うと、今まで生きてきてこれほど繊細で気品と優美さを兼ね備えた女性を見たことない、と大人になった彼女を見て思ったほど美しかった。長い白金の髪は艶やかで、肌は透けるほどに白く、碧い瞳は天上の空よりも深く煌めきを保っていた。まるでアレックスのためにずっと大切に隠されて、その時が来てようやく表に出された宝物かと思ったほどだった。
そしてその時の彼女が持っていた雰囲気がとても静かな、儚さだった。彼女の両親が生きていた頃に数度会った時や、両親から話として聞いていた子供の頃の彼女は、もう少し明るさと溌剌さが感じられた。しかし両親が死に、大人になって再び会った彼女は美しくはあったが、物悲しさと儚さの人に見えた。
その儚さをランベルセは夜送舟艇の影から現れた彼から微かに感じたのだった。妻を失って憔悴している、一見そうかとも思った。しかしそうではなく、彼はアレックスでは無い。プレンティスの方ではあるまいか。やはりその直感が当っていた。
「プレンティス、しっかりするんだ」
しかし今、目の前にしている彼女、プレンティス・ウォルシオムは、いつのどの状況でも見たことの無い姿をしていた。泣きながら「助けて」と言っている。そんな弱い彼女は今まで見たことはおろか、このような姿の彼女を他に見せて良いのか。まして執行役になってからの彼女は、この姿を想像できないほどに『化けて』いる。執行役の実質最高位最高執行役代行に上り詰め、プレンティスはその役職を全うする為にあらゆる全てを棄てた。そして最強の死神になった。その時から彼女のこの壊れそうなほどの繊細な女性の姿は表には決して出してはいない。おそらく彼女のこの姿を知る者は、夫たるアレックスと執行役の修行を共にしていたレイモンド。それからランベルセの両親。彼らはウォルシオム夫婦を取り持ったので知ってはいる。だがそれくらいだろう。ここにいる者達で知らないのは紅の魔道士だけ。いや、その彼も、もしかしたら知っているのか、勘付いているのかも知れない。そういう人物。だから彼女をこのままにしておいても別に問題では無いのかも知れないが。しかし彼女がこんな自分を本当に曝け出したいとは思えない。それは夫たるアレックスも、こんな状態の彼女を他人に見せたいとは思わないだろう。
「プレンティス。君の思いは分かった。君のような人がよくこれまで耐えてきた。少し気を落ち着かせるんだ。もう私が何とかする。だから安心していい」
自分の為に愛する人が身代わりとなった。もしも自分が同じ立場になってしまったら、その苦しさに耐え切れずに死にそうなくらいの絶望感を抱くだろう。そして何としても助け出したいと強く願うはず。しかし状況や事情、更に自分にも大きな背負うものがあると、そのどれにも気持ちが取られ、どうしたら良いか混乱してしまう。
今の彼女は本当に弱りきっている。自分の弱さ、一刻も早く愛する人を救出したいという思い、それから死神として理を厳守する誓いを貫く誇り。彼女の苦しさは痛いほどよくわかる。
「プレンティス。私に話して欲しい。まず何が起こったのか。そして誰が何を目論んでいるのか。君が唯一、核心の傍まで触れたはずだ。一体、何が起こった」
ランベルセは彼女の肩をしっかり掴んだ。プレンティスは一瞬震えた。本当に彼女の肩は細く、よくこんなしなやかで頼りない体で、今まで悪神を相手に剣を振るっていたと思えるほどだった。
「パルティシオン。奴らは〝モフィルド〟という何かの下で動いています。人なのか。それとも象徴なのか。人世で対峙した影はそれを主人と仰ぎ、それの下で自爆行為をしました。あの時、影が爆発の兆しをみせた直前、夫が現われ、疾風のようにわたくしを救ってくれました。けれども殿下はそこに留まり、影をも救おうとなさったのです」
「自爆をした影までもを……?」
「はい。夫は本当に生命を大切に思っています。ですが自爆の直後に、わたくしが始めに居た場所で捕縛の結界が発動しました。あれは神術と妖術の掛け合わせたもの。そして力の源は妖力でした。おそらく敵の中に妖魔も加担しているのでしょう」
「妖魔……」
そうなのかも知れないとランベルセも感じてはいた。彼らは自然に存在する種族。この場合の自然とは、緑豊かな森や林などの植物が手つかずのまま生えている広大な場所、という意味では無い。彼らの自然とは、あらゆる物体の成り立ちに欠かせない、水地火風の力、および光と闇の素の事である。
気が遠くなるほどの昔。創造を司る最高神が、各力の源に人の形と意志を与えて悪神を葬るように創り出した。それが六源神だった。彼らは最高神の下、そのように行動を取るよう存在していた。だが一方で、生命の糧、恵みの源としての役割も果たす為の神でもあった。生命がより豊かに、安穏と幸いになるための存在。
そして妖魔という種族は、その恵みとなる元素の力を自らに具わっている妖力で、直接引き出す事が出来たのだった。だから彼らの使う術の威力は大きく、又、六源神の力により近い聖い力を有する事が出来た。
そのため彼らは六源神に対し、深い感謝の念を持ち、又、神々の恩恵を大いに受け存在している生命そのものには、大変な畏敬の念で接している。ことに豊かな森に対しては、各元素の集約されたまさに〝六源神の全て〟が揃って成り立っている為、妖魔たちは緑豊かな森を愛し、大切にして生きている。
ゆえに彼は〝自然と共に存在する種族〟と呼ばれるようになった。
そしてこの世は六源神の恩恵であらゆる全ては成り立っている、と言っても過言では無い。全てはその中で存在している。つまり恩恵はあらゆる所にいつも存在している。無いという状態こそあり得ない。だから彼らは六源神の力を以って、自然であるという状態を不自然なく作り上げることが出来たのだった。状況や状態を『馴染ませてしまう』。それで何が出来てしまうかというと。
通常は幻影や幻覚を魅せられることで人は惑う。しかし彼らはそうではない。あらゆる全てを『自然な状態にしてしまう』。初めからそうであったかの如くに作り上げてしまう。状況や状態を不自然に感じさせないように〝魅せる〟技を持っている。つまり『不自然では無い=自然である』と術者以外は思わざるを得ない状態を作ることが出来てしまう。
その例として、森に棲む虫が周囲の環境に似せて紛れ込み目立たなく存在する擬態のようなものだと考えると分かり易い。しかし彼らの中の高等技術者などは、一つの時空間内に別の亜空間を造り上げそこへ生命を誘い込み、延々と彷徨わせる事さえ出来る、と言われている。最早、創造の力なのかとさえ言われている。しかし造り出す亜空間も一種の結界であり、境界線の内側に妖力で不自然と感じさせない自然な状態を作り上げるということで、幻術の一つだった。
その為、妖魔たちの術を破ることは非常に難しい。特に妖魔の中でも高位の術者、妖力の高い王族たちが使う術は、神々さえも解くことが相当な困難を強いられる。
「妖魔が関わり、〝モフィルド〟という下で動いている。そして彼らは夜送舟艇まで使い何かを起こそうとしている……」
ランベルセも昨晩から厄介な案件だとは思っていた。だがこれは想像以上の事が起こっている。その上、これから先に起こり得るかも知れないという事か、と心構えを改めざるを得ない。
「しかし妖魔がなぜこのような大それた事に加担しているのか。それからモフィルドとは一体、何を指すのかは私も全く分からない」
ランベルセは天界において、王の補佐官であり公爵という地位についている。更に一方で、創造神が天界に与えた役目の中に〝全ての世界の守護、時空間の流れの順行を見守る〟事もあった。他世界間で問題が生じた場合、その仲裁やその調停を担う。彼はその空間外事機関の長も務めていた。だから天上界の中でも、他世界に対しての知識は群を抜いて豊富にあるはずだった。しかしそんな彼でさえも、妖魔はともかく〝モフィルド〟という言葉は覚えのない単語だった。
「パルティシオン。敵はもしかしたら、連れ去った者をわたくしではないと見破ってしまっているかも知れません」
「それは無いだろう。アレックスも君に並ぶ変容変化の術に長けている。そして彼自身も相当な神力を持っている。第一、一番身近な人になっているんだ。破れるはずはない」
「そうかも知れません。けれど、そんな夫を連れ去ってしまう事が出来てしまう者たちです。もし本当に妖魔が加担していれば、分かってしまうかも知れません」
「私はそうは思わない。彼も一流の執行役。そんな執行役は、何者かへ化ける演者としても一流。まして君を守るためにやっている事。それをしくじる事は絶対にしない。だから君も辛いかも知れないが……現時点では、アレックスを演じ切るべきだ」
「殿下に……」
「そう。君を逃がすために彼は君の姿へと変わった。と、なれば君が二人いてはおかしなものだろう。それに彼が君を逃すために、彼は自分の姿にして逃がしたのだろう?」
「……ええ。気づいたら、嵐の中でわたくしは殿下の姿になって、連れ攫われてしまう自分の姿を見ていたのです」
「アレックスはそうすることによって、敵側にプレンティスが夫の目の前で攫われた、という印象付けをしたかったんだろう」
「なぜですか」
「敵側は明らかにプレンティスが目的だった。その目的が達せられた事に疑いはない、と強く思わせられれば、逃した君を追う者はいなくなる。そうするためには妻が夫の目の前で確実に攫われた、という状況が一番印象的、且つ、疑いようのない状況だと思えるからだ。つまりそうまでして彼は君を守りたかった」
「殿下……。なんて無茶をなさるのでしょう」
本当にそう思う。アレックスはそこまでして妻を守り通した。
だがこれにより、彼自身も妻がどういう存在であるか、客観的に分かっている。戦力としてみれば、敵であれば相当厄介な相手であり、味方に付ければほぼ無敵となり、どちらにしても戦局を左右する。
そしてまた、彼女を女性としてみれば、非常に見目麗しく、異性から欲せられる存在であると容易に想像できる。しかも彼女を攫える力があるなら、当然、その美しさを手に入れようと考えることもありえるだろう。
そんな彼女を守る。その為にあらゆるものからの壁になる。だからアレックスはその身に何が降りかかろうとも、彼女を守るための行動を取ったのだろう。
「ではなぜ、二人で逃げようとはしてくださらなかったのですか。一緒に逃げて下さればよかったのに」
「それも違う。君を本当に危険から遠ざけたかった。一緒に逃げても追われはする。そうではなくて、一番安全に、そして守られるようにしたかった。それが今の君の姿であり、状況だ。もし、私達と君が収納庫で会わなければ、君の方から私の所へ来ただろう」
「それは……」
「アレックスはそれを見越していた。つまり、彼もこの件に関しては何か詳細を知り得ていたのかも知れない。それも聞いていないか? プレンティス」
「いいえ。殿下は特殊行動班の業務以上に、特別なお仕事を引き受けておいでの部分もありました。わたくしにもお話できない事もございます」
「そうか」
この一件は、本当に不明瞭が多過ぎる。裏で何か大きな悪が動いていなければよいのだが、とランベルセに不安が過ぎる。
「とにかく、今はそのままでいるべきだ。もしも正体を明かすにしても、アレックスの方が元の姿になってからの方が良い」
状況は彼女が夫の姿で進行している。こちらの勝手で、彼女を元に戻す事は変に事態を悪化させかねない危険性がある。
「わかりました、パルティシオン。わたくしも……殿下の姿でありましょう。夫に再会を果たした時に、わたくしたちは互いの姿を取り戻します。二人が再び会うための約束として、わたくしはそれを誓いとして立てます」
プレンティスはその華奢な身をしゃんと正した。それから真っ直ぐランベルセの方を向く。
「わたくしは殿下の為に戦います。わたくしは殿下あっての執行役なのです。夫がいなければ執行役をやることもありませんでした。あらゆる生命のために執行役はおりますが、その執行役をやるにはまず夫がいなければわたくしは一切働きません。パルティシオン。殿下を助けるために共に戦ってくれますか」
彼を見つめる透き通る碧い瞳には強い意志の煌きが宿っている。
「無論。幼馴染みである『君たち』を放ってはおけない。だから私はここにいる。一緒に行こう、プレンティス。但し、あまり無茶はしないで欲しい」
掴んでいた彼女の腕をそっと放すと彼もまたゆっくり頷いた。
彼女はそんな彼を見て「はい」と、返事をすると、その身に青色の光を術で纏わせた。光の中で彼女の姿は変化をしていく。ストレートの長い髪はウェーブの掛かったふわふわしたものへとなり、背の高さもぐんぐんと伸びていく。身につけていた衣服も華美であり上品な男性貴族の纏うものへとなっていく。そして光の収まりと同時に目の前の女性は、全てを完璧に幼馴染みへと『戻した』。
「うんうん。すまないね、パルティシオン」
小さく微笑み、アレックスは少し悲しさを溶かし込んだ表情でランベルセにそう言ったのだった。