YASOU SHUUTEI NO PURIN TEIDAN

夜送舟艇のプリン艇団

TEXT ONLY EDITION

榛名 暒

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初回掲載2026年9月4日

第1章

「もう、分からないの? パルティシオンは時間切れだね。いいかい? マリアンヌのイチモツとして考えられることは二つ。今まで私が話をしてきたことを踏まえて考えると、マリアンヌにとって大切な存在プレンティスがとてつもなく心配な状況にあると推測がつく。少なくともマリアンヌは、坊に責任の一端があると思っている可能性が高い。そうでなければ、あの反応は少し不自然だからね」

「しかし彼女も陛下が任じた〝風の傍仕え〟の一人でもあります。命に代えても戦う宿業を自ら選択した……」

「違う。あのさ、そんな事はマリアンヌだって分かってる。もう。だから私の推測である一つ、風の傍仕えとしての隠密行動でウォルシオムの二人が居ない、は除外って言おうと思ったんだよ。いくら大切なプレンティスであっても、彼女が傍仕えとして出て行くことは仕方が無い、とそこはしぶしぶ了解しているはずだよ。だって傍仕えを選んだのはプレンティス自身なんだからね。そして傍仕えを選んだ時点で、どんな大任かを乳母のようについて回っていたマリアンヌなら当然知ることになる。だから傍仕えとしての伝令でいなくなった場合は、坊に対してイチモツを抱くかもしれないけど探そうとはしない。傍仕えの伝令は何よりも優先させなければならない絶対命令だからね」

 父の言う通りだった。自分も、あのハチャメチャ天界王からのどうでもいい命令ならば一蹴できる。しかしひとたび、あの方が風神として悪神に対し手を尽くすとなった場合に下す〝伝令〟に対しては間違いなく最優先に叶えんがために動く。それは全生命を悪神の手から守る為。だがそうであるからこそ、王は傍仕えの伝令を出した時に一定の配慮を示す。特に傍仕え達の周囲には気を配り、彼らの働きに対し同等又はそれ以上の〝神の庇護〟を齎すと約束をしていた。

 だから父の推測は間違ってはいない。自分も伝令が下されれば、もうその命は悪神と戦い、あらゆる生命のためだけに存在するものになる。

「では考えられるもう一つが本命だと言われるのですか」

「そう。考えられるもう一つの理由」

「貴方が様々積み重ねた話を総合し、そして『坊が直接支配している管轄の役人』と言った、つまり天界執行役。それにまつわる事で陛下に対してマリアンヌはイチモツを持ったという事でしょうか」

「うん。彼女が嫌悪するのは心情的に言ったら、傍仕えでプレンティスが出て行ったとしても同じかもしれない。むしろ傍仕えの方が心配するかもしれない。でも心配であっても探しには行かない。そんな事をすれば大事に思っているプレンティスに迷惑になる。悪神と関わろうとしている傍仕えに一介の天上人が近づくことは危険過ぎる。そこは分かっているはずだよね。
 となるとプレンティスを探し、且つ、坊を嫌悪しているという条件が成り立ってくる。その条件から考えると、坊は自分が直に管理監督している生命の機関、天界執行役には厳格さを強く求めている。その厳格さはここの執行役達の命に対する聖誓、慈悲の為にあり、個々の執行役達の烈日秋霜の心構えで示す事としている。そんな己の責任、執行役としての組織の成り立ちがあるからこそ、彼らの責任は組織全体としても清廉潔白を自らで貫き通さなければならない。
 でも現状では、そこの重職についている少なくとも二人が行方が分からない。マリアンヌはプレンティスが家族然の存在ではあるが、彼女自身も執行役でもあり、探そうとしているのはその重職たちの下にいる部下でもあるという事になる。と、なればここで見えてくるのは、行方不明のウォルシオム夫妻を挟んで坊と執行役達の間で何かが起こっていると考えられる。分かるでしょ? ここまで言えば」

「それは……」

 なるほど。ようやくわかってきた。これはいよいよ厄介な話になっている事が分かってきた。

「話を総括すると、現状、天界執行役達の中で問題が生じている。しかもその問題は内部で起こっていると考えられる。ウォルシオム夫妻の行方が分からないはおそらくそれが原因。だから陛下は執行役らで責任を持て、ということで公の捜索などはさせていない。しかし余程、執行役達も切羽詰まった状況に追い込まれている。だから出来る限りの範囲でやれるだけの事をやろうと動いている」

「その通りだよ、パルティシオン」

「なんという事だ……」

 今日の帰り際。執行役の統括長がわざわざアレックスを探しに来たが。あの時は少し不自然さを感じたが、特に放って屋敷へ戻ってしまった。もうあの時には執行役らはアレックスやプレンティスを何とか見つけられないかと動いていたという事になる。

 しかし自分はそんなことなど露知らず、というか早く帰る事、アンナに早く会いたい気持ちでいっぱいだった為、何も思わずにいた。だが目の前の父はほんの些細な事を見逃さずに、放っておく事もせずに、色々動いていた。なんたる遅れ。自分との裁量の差。

「どうしたのさ、パルティシオン」

「いえ。何でもなくは無いのですが。しかしここでそれを言っても仕方が無いので」

「いいよ、君の足りない思慮の話なんて。それよりここで名誉挽回しなって」

「しかしそれこそ始めに貴方がおっしゃった通り。私は陛下の補佐官です。主人の意向に背くわけにはまいりません。貴方もご承知通り、陛下はふざけた性格ではありますが本質的には誓約や決まり事を重んじています。特に生命の生死を扱う天界執行役は〝死神〟と揶揄されるくらい、大概の生き物に対して生かすも殺すも自由にやろうと思えば出来る部署。その為、だからこそ彼らは厳しい聖誓や誓約を立て、その誓いの下に働いているのです。ですから彼らが内部で問題を生じさせたら、陛下同様に私も彼らで解決するように言います。薄情とおっしゃられても彼らはそうした重大な立場や役割を担う事を自らで選択し、誓ったのです。そこに他者が介入しては天上界の決め事の根幹を歪めてしまいます」

「だから君に頼んでるんでしょ? 私は何も死神たちの問題を君が解決しろ、だなんて言ってない。プレンティスの安否を確認して、命の危機に瀕していたら助けなよって勧めてるだけ。言ってる意味、分かるでしょ」

「しかし彼女の助けになる事が執行役らで解決すべき責務に手を貸す事になってしまっては、秩序が乱されてしまいます。彼女を助ける事をも含めて執行役達の負っている責任であるならば、彼らがやらねばならない。たとえ友人であっても彼女を探す事は出来ません」

「相変わらず頭がカタい天界王補佐官だなあ、君って子は」

「何と言われようとも動く訳にはまいりません」

「だから坊にとっては都合が良いって言われるんだよ。本質的には冷徹な天界最高責任者に、堅物で決まりを従順に守る事が生き甲斐の責任者補佐官。もうっ。そこに慈悲とか救いの手を差し伸べる度量は無いのっ!?」

「御言葉ですが、父上。貴方もさっき自分で王陛下と同じ冷血漢な姿勢で仕事には挑む、とおっしゃったではありませんか。自分こそ仕事の上では使えない人材はさっさと見限り、次々と配置転換を繰り返していたのでは? そのせいで付けられた呼び名は本神殿の死神。パッパパッパと首を切ってすぐに捨てていった。今でも暗黒時代の語り草として古い役人達から言われる事があるんですよっ」

「それは私が補佐官だった時代の話で今じゃないでしょ? 大体、実際にあの時は身分や縁者の推薦だけで大した働きが出来ない天上人が本神殿にウロウロしていたんだ。王も補佐官も殺された直後。本当に必要な人材が必要だったんだよっ。それを勝手に逆恨みをした奴が今でもグチグチ言ってるだけなんだ。そんな者は放っておけばいいっ。そんな事も見抜けないなんて君こそまだまだヒヨッコ補佐官なんだよっ」

「ひ、ひよっこ……」

「このピヨピヨ補佐官っ」

 確かに自分は未だ未熟だ、と感じてしまう部分も多々ある。それに有翼族の母の血を引いているので背には真っ白な翼を有している。

 だからって。ひよっこ。剰え、ピヨピヨ補佐官、とは一体。

「父上っ。ならば、ええご自由に。ご自分で気になる事の捜査でも捜索でも探偵でもなさってください。私など未だニワトリのヒナ程度。貴方がお気に召す結果など到底出せないでしょう」

 いくら父の頼みでも。ピヨピヨ呼ばわりをされて素直に話を聞く道理はない。さすがに頭に血が昇った。

 それに話の内容も天界王補佐官である自分が加担して良いとは言えなかった。友人の安否は非常に気に掛かるもの。だがそれが執行役という役人らで負わねばならない責務に含まれている所在不明ならば手出しは出来ない。たとえ天上補佐官であっても、役を越えた過干渉行為は他所への示しがつかない。規律を重んじ、その指針となるべき自分は動いてはならないものと考えられる。

「申し訳ありませんが、この話は聞かなかった事にします」

「ちょっとパルティシオン。友達を見捨てるのっ!?」

「いいえ。話を聞かなかったので見捨ててはいません。初めから聞いておりませんので貴方が何をおっしゃっているのか分からない、というのが正解です」

 そして正直なところ。文句があるなら自分でやれば? と、いう気持ちでいっぱいだった。ランベルセは「それでは父上、失礼します。安穏な夜を」と言って、自室へさっさと戻った。


 翌朝。

 清々しい天上の光が公爵邸へと降り注ぎ、それを心地良いと感じながらランベルセは目を覚ました。隣に眠っているアンナも幸せそうな顔で静かな呼吸をしている。昨夜は妻と遅くまで会話を交わし、それから床へ入るとゆっくり体を休めた。決して父の云う穿った行動など取ってはいない。と、いうよりも取る度胸が彼には備わっていなかった。

 なので十分に気力と体力が回復したランベルセは久々に早朝から起き出して、眠っている妻を寝室へ残したままガウンを羽織って部屋を出た。庭に出て散歩などしても良い。そんな気持ちでいた。

「あら? パルティシオン、おはよう」

「母上。おはようございます」

 廊下に出ると、エプロン姿の母ソフィアが廊下の向こうからこちらへ歩いてくるのが見えた。母は毎朝、家族の食事を作るのが日課だった。それもあのワガママな父が「朝ゴハンはソフィアが作ってくれたもの以外はヤダ」という理由から、ランベルセが幼い頃からその慣習(?)が続いていた。

 しかしこの廊下は炊事場がある方向ではない。不思議に思った息子は母にどこへ行くのか尋ねる。すると「貴方に話があるのよ」と言われた。

「ねえ、パルティシオン。昨日、お父さんとまたケンカをしたみたいだけど」

「はあ。まあいつもの事というか」

 ああいった言い争いはわりと頻発する事だった。だからそれに対して母親が心配になって、こんな朝早くから息子の元へ訪ねてくるほどの事ではないような気がした。

「ルートヴィッヒ様ったら、夜の間、ずっと貴方の事で腹を立てていたみたいなの。わたしもずっと話を聞かされたんだけど」

「それは……申し訳ありません」

「お父さんの貴方に対する悪クチはいつもの事だからいいの。それに貴方の事を構いたくて仕方が無いから、あれは一種の愛情表現ってものね。だからちっとも気にしていないのだけど」

「はあ」

 自分はけっこう悪口を言われていたのかと彼は思い内心ため息を吐いた。

夜送舟艇のプリン艇団 第1章の挿絵

「でも昨日は本当に頭に来てたみたいで。それで一晩たって目が覚めたらこの手紙を残していなくなっちゃったのよ」

「え?」

 母はそう言ってエプロンのポケットに入っていた折りたたまれた紙を息子へと差し出した。彼はそれを受け取るとすぐに中身を確認する。

〝もう、本当に不肖の息子には呆れたよ。こうなったら坊に直談判してくるね〟

「なっ……何てことを」

 文面を読んだ瞬間。その息子は呻くように唸った。

「ねえパルティシオン。詳しい事情はよくわからないのだけど……その、プレンティスちゃんが大変な事になっちゃってるの?」

「え」

 今度は母からそんな事が飛び出した。

「余計な事かも知れないけど。わたしもプレンティスちゃんが何か危ない目に遭っているなら助けて欲しいの」

「母上」

「わたしって、ほら。元々このお屋敷の侍女でお料理係だったでしょ?」

「それは……」

 母のソフィアは高貴な出身ではなく一般の天上人だった。それはこの屋敷の者なら誰でも知っている事だった。

「それでね。わたし、お料理をプレンティスちゃんのお母さんであるエリザと一緒に学問所でお勉強したり、お互いに料理の腕を磨き合ったり、結構仲が良かったの。そんな親友の娘が危ないと聞いて、すごく心配。ルートヴィッヒ様のお話だとそうにしか聞こえなくて。だからお願い」

「しかしそれは」

 母は真剣な顔をし、胸の前で両手を握り、息子に懇願した。しかしこの話を容易に承諾は出来ない。それは昨晩父にも話した通りの理由からだった。

 ランベルセの個人的な気持ちでは勿論、プレンティスが危機であるというなら助けに行くべきだろうと思う。そしてアレックスにも困り事などがあれば手助けしたいとも思っている。きっと彼らも自分が困難に直面したら救いの手を差し伸べるだろう。

 しかし天界執行役という生命の管理者を介すとそれは別の話になってしまう。

「旦那様、プレンティス様が危険な目に遭ってしまっているのですか……」

「へ? あ。アンナ」

 どうしたものかと思案の真っ最中。背にしていた部屋の扉がカチャリと音を立てて開くと、その小さな隙間から可愛らしい声が聞こえた。

「おはようございます、旦那様。お義母様」

「お、おは……ようアンナ」

「アンナ。おはよう」

 自分はぎこちなく、母は困った顔を少し崩して隙間から顔を覗かせているアンナに挨拶をした。けれどアンナの方は未だ眠そうな顔をしていた。

「あの、旦那様。私もプレンティス様が悪い人に誘拐されてしまったのなら、早く助けに行っていただきたいです。旦那様が無理なら、わたしが代わりに行きます」

「え? えっ!? き、君がっ」

「はい。頑張ります……むにゃむにゃ」

「って。アンナ。もしかして寝ぼけてるのかい?」

「大丈夫です。わたしでも何か出来る事があるはずです。まずはおイモの皮むき……」

「まあ、アンナったら。昨日の晩ごはんの用意の失敗を気に病んでるのね」

「は、はあ」

「でもそんなアンナだって、今、危険な目に遭っている人は助けに行きたいって想いはあるのよ」

「そ、そう……でしょうか」

「そうよ。あなたには分からないの? アンナの夫であるのにっ」

「は、はあ」

 扉の隙間から顔を出している妻はうつらうつらしているように見えた。このままだとその場で眠りこけてしまうとも限らない。

 ランベルセは仕方が無いので「アンナ、分ったから。君は部屋でちゃんと寝て」と彼女の頭を撫でる。すると妻は「はい。おやすみなさい、旦那様。ではプレンティス様のことをちゃんと助けて下さいね……むにゃむにゃ」と部屋の中へと戻って行く。

「ありがとう、パルティシオン。行ってくれるのねっ」

「いえ。アンナの言いたい事は分かった、という意味です」

「もうっ。どうしてわたしたちのお願いを聞いてくれないの。そんな悪い子に育てたつもりは無いのに」

「私も悪い子に育ったつもりはありませんから心配ないです、母上」

「そういう所がお父さんにそっくりよ」

「嫌でもあの人の子でもありますから」

「本当に困った子ね。でもホントの本当にお願いよ、パルティシオン。プレンティスちゃんを助けてあげて。エリザの子供を助けてあげて。お願い」

「しかし」

「パルティシオン、お願い。これ以上、わたしたちのお願いを聞いてくれないなら、わたしとアンナでプレンティスちゃんを助けに行くわよっ。もうそうするわっ」

「ええーっ」

 そ、それは。本当にダメというか。絶対ダメというか。

「は、母上。お母さん、落ち着いてください。私の話を……」

「パルティシオンがそんなに弱い子だとは思っていなかったわ。ガッカリよ。アンナの方が勇敢で一所懸命な子よっ。それならアンナと行ってきます。パルティシオンはお家でお留守番をしていてね」

「で、ですから。死神というか、天界執行役という役人は……」

「アンナ。お出かけする用意をして。一緒にプレンティスちゃんを助けに――」

「わ、わわ分かりましたから。と、とにかく落ち着いてください、お母さんっ」

 ランベルセは興奮するソフィアの両肩を掴んで懇願する。母もあの父の妻をやっていられる人物なのだ。そして過去に〝伝説のランベルセ公爵夫人〟と言われた事があると聞いている。

「分かりましたから。とりあえずアンナを巻き込まないでください。そしてお母さんも無謀な行動をしない。いいですか。そんな事をしたらお父さんがそれ以上の行動を取ってしまいます」

「それなら何とかしてくれるのね」

「はあ……」

「ありがとう。さすがわたしの息子ね」

「まあ……」

 こうして。

「私はどうしたら……」

 深いため息を吐き、爽やかな朝ではなく、目がスゴく醒める思いをさせられた朝をランベルセは自宅において過ごす羽目になったのだった。

「旦那様。今日も元気にいってらっしゃいませ~~」

「あ、ありがとう。アンナ」

 そして妻の愛くるしい笑顔に見送られ神殿へと出仕した。


  **  **  **  **  **


 しかし朝から大変な話を持ち出されたものだ、とランベルセは到着した本神殿の廊下を歩きながら思った。母のソフィアがああいった話と行動をする事は滅多にあるものではない。それほどまでに母は親友の娘が心配なのだろう。

 言われてみれば、ランベルセが成人になるかならないかの頃だったか。両親を失ったプレンティスを公爵邸に引き取ろうと両親が言っていたような気もする。しかしプレンティス自身が、生まれた家屋敷から離れたくない、と幼いながらも頑として離れなかった為、だからといってそのまま放っておく訳にもいかないから、心配した母やプレンティスの母に料理を習いに行っていた炎一族の娘のマリアンヌが面倒をみたり世話をしていた。やがてマリアンヌが住み込みでプレンティスの世話をするようになり、そのまま彼女の屋敷にいついた……と、聞いている。

 そんな経緯があるのだから、母がプレンティスをとても心配する気持ちは分からないでもない。だが息子である自分にも負っている責務も立場もある。それは死神も同じ。彼らも彼らで負わねばならない本懐がある。それを破ることはたとえ親の願いでも、友情でも、出来ない事もあるのだ。

「しかし母上とアンナで決死隊などを結成されては困った事に……」

 ランベルセの胸に少し不安が過ぎる。あの二人ならやりそう、かも。しかしそれくらいなら止められる。いや、どうかな。母にもアンナにも弱いというか、甘いというか。

 とにかく再びため息が出た。これから一体、どうなるのだろうか。

「――公爵っ。ランベルセ公爵閣下ーーっ」

 肩を落とした直後だった。廊下の奥から手をブンブンと振り、大声で自分の名前を呼ぶ若い男が猛ダッシュで近づいてくるのが見えた。

「た、たた大変ですっ。は、早く執務室へっ」

「なんだ、出仕早々に」

 駆け寄ってきたのはランベルセを始め天界の重職らが執務を行うフロアに常駐している衛兵の一人だった。彼は慌てふためいた様子で「いいからお急ぎくださいっ」と、ランベルセの腕を掴んで引っ張った。そして走り出す。

「どうしたんだっ」

「どうもこうもありませんっ。天界最高責任者補佐官の部屋を占拠し、立て籠もっている者が中で騒いでいるのですっ」

「なんだとっ。い、一体どういうことだ。誰がそんな真似を……」

「貴方の父上殿ですっ」

「……」

 正直、そんな籠城現場になど行きたくはなかった。しかし。ランベルセ公爵家がこれ以上、トンチキな一族だと思われたら末代までの恥と考えると。急がざるを得なかった。

 そして神殿最上階へとたどり着くと。最早、階段を登りきった所から大勢の人だかりが出来ていた。

「なんたる事を……」

 ランベルセは連れてきてくれた衛兵に「すまないが野次馬を自分の持ち場へ戻るように人員整理をして欲しい」と頼み、自分は一番人が集まっている部屋の前まで進んだ。

 廊下の一番奥から二番目にある扉の前。そこでは「ルートヴィッヒおじさんはお家に帰ってくださいですーっ」と泣きべそをかいている天上界の主が、扉に縋っている姿があった。ギャラリーはそれを見て楽しんでいるのか、はたまた、中から「うるさいな、坊は。もうこの部屋は私のものだから。君こそ仕事に戻りなよ。ホント、うちの子同様に融通が利かないコンコンチキだよ。王と補佐官のおバカ二人組だね」と、平然と言い放つ悪口に興味津々なのか。かなりの人数がランベルセの執務室の前には群がっていた。

「父上っ。いい加減にしてください」

 息子は出来るだけ冷静に扉に向かって声を掛けた。

「もーっランベルセ。早くルートヴィッヒおじさんを引き取ってくださいですぅー」

「陛下。申し訳ありません。相当な目に遭わされたと思います」

 そして人間世界でいうところのアイドル顔をした天上界の長に一応謝った。しかし元を辿ればこの人が執行役らに厳格過ぎなければ済むだけのことかもしれない。けれどランベルセとしても目の前でドアに泣いて縋っている人物と同様に『厳格さ』を以って父の頼みを断ったのだった。

 彼は主の背後に立ってさらに声を掛けた。

「父上。確かに貴方に対しての仕打ちは酷かったかもしれません。母上が用意してくださった焼き菓子を私とアンナで全て食べてしまった事は本当に悪かったと思います。貴方にとって最愛の方が作った、ケーキにクリームブリュレ、それからマドレーヌとフィナンシェ。どれを取ってもとても美味でした。貴方はそれを一番初めに、しかも独り占めしなければ気が済まない。それを私とアンナが知らぬとはいえ邪魔をしてしまいました。本当に申し訳ありません」

「もうっ。そんな事でボクに八つ当たりして、ランベルセの上司だから責任取れなんて朝から攻めてきて。ボク、怖かったですぅーーっ。単なる悪質クレーマーですよー。びえーんっ」

 ……この人は本気で言っているのだろう。父が悪質クレーマーであることはランベルセ自身も思っている。

「ですから母上が今、ケーキにマドレーヌ、クリームブリュレ、そして本日はクグロフとチェリーパイを用意するとおっしゃっていました。ですので、とっととここを明け渡し屋敷へお戻りください。無駄な抵抗は止めて扉を開けてください」

 これくらいの事を言えば、おそらくあの人は。

「それホントなの? ソフィアのチェリーパイとプリン。嘘だったらこの天上界を木っ端微塵にするよ」

「嘘ではありません。とにかく。これ以上、我が家の内情で皆に迷惑を掛けぬようお願いします。陛下も泣いちゃってうるさいです」

 必要な方便と微妙な事実を最後まで静かに言った。これで分かってもらえなければ、父は単なる駄々っ子で動き回っているだけである。

「――わかった。じゃあパルティシオンと坊はこの部屋に入れてあげるよ」

 すると中からカチャっと鍵の開く音がした。それから扉がほんの少しだけ開く。

「その代わり、いきなり家へ転移させる術は使わないでよね」

 父が不機嫌な顔を隙間から覗かせた。

「そんな事はしません。こちらとしては始末書の一つでも書いて頂いた後のご帰宅を願います」

「そーですよっ。ルートヴィッヒおじさんは反省文を一〇〇億枚書かないと許してあげないですよーだ」

「一〇〇億枚、現王に対する陳情を書き連ねるけど、君、耐えられる訳?」

「そんなの嫌ですーーっ。ルートヴィッヒおじさんのオニッ。アクマッ。いじめっ子っ」

「陛下。父に対する抗議は部屋に入ってからお願いします。今のままですと好奇の目に晒されてるだけです」

「もうっ。お前たち親子のせいで恥掻いちゃったでしょ」

「ですから。どうぞ、私の執務室へ」

「もうっ。お招きされてもボクもお菓子が出てこないと仕事しませんからね」

「ウマイ棒がありますから」

「バリチキ味がいいです」

「いいから。とっととお部屋へ」

 ランベルセはうだうだ言っている上司を無理矢理部屋へと押し込め、自分も後からスタスタと入っていく。ただし、一度振り向き、扉を閉めるにあたって深いため息を吐き、しかし何も言葉を発せずに静かに扉を閉めた。