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是鷹おじさんとぼくたち

初回掲載:2026年7月2日

登場人物

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《第3話 是鷹おじさんとイセカイテンセイのケン》(3)‐3

 ファルセス王国・中央王都マリエンジュ。万年雪が頂きに常とかかるフォンフォール大山脈の下に大きな森に囲まれたそこは、学術都市でもあり、又、古くからこの国の守神トーラを祀る大規模な神殿が王城の奥にそびえ立っていた。

 トーラの神殿は、守神を祀った中央神殿と、聖職者達の暮らす宿坊や祈りを捧げる為に遠方から訪れる者達の為の宿泊施設、それから神学校までをも兼ね備えた大きな物だった。

「科学や医療に力を入れている国のわりには、信心深さが強いよねぇ~」

「世界のあらゆる人の為になるものは、人の心が生み出しているのです。つまり人間には利便性と精神を一時的にでも安穏にする支え、となる物が両方必要なんですよ」

 大地の医院長と天使、サラリーマン、それから遺体を抱えた魔法使いは、その中央神殿へと来ていた。是鷹医院長と天使はこの世界の上流階級の格好をしたニンゲンの姿に、異世界の若者はこの世界の中流階級の服装、それから魔法使いは赤いローブから緑色の平服に姿を変えていた。その彼が抱きかかえている少年は、遺体でありながらも、ただ眠り込んでいるような安らかな顔をし、薄紫色の布に包まれていた。

 この神殿には毎日、大勢の人が大地の神へと祈りを捧げるため訪れている。成就祈願、謝意、救済。その為、中央神殿を行き交う人々は、ほとんどがしめやかで静かな者達ばかりだった。しかしその数が多いので、人が往来する活気のようなものにも満ちていた。

 たくさんの人々が周りにいる中で、四人は神殿に仕える神官に話し、ある人物への面会を申し出た。するとその神官は少し驚いた表情を見せるが、魔法使いが身元を保証する証明書の紙を示すと四人は神殿の奥へと案内される。

「君ってさ、この世界だとディナールの魔法学院のキョージュってヤツだっけ?」

「講師です。このディナールの紋章が入った学院の職員証を見せると、大概の施設へは入れてもらえるんですよ」

「便利だね~。私もそこで働こっかなぁ。大魔法帝国のガッコの先生なんて、カッコいいし。その資格も十分でしょ?」

「まあ実力的には、どこの誰よりもあります。しかしこれ以上の退学者を出したくないと学院長は考えています」

「なら、入学者が倍増して一石百チョウ、ううん、一石百億チョウだね~」

「はあ。貴方の就任によって翌日には学院が運営不可になりそうですけど」

 こうして案内されたのは、神殿に務める神官、巫女、などが居住している建物だった。

「ここでお待ちください。彼女を呼んでまいります」

 四人が通されたのは、応接用に設えた部屋のようだった。お誂え向きに部屋の中心には大地の神トーラの像が立っている。あとは簡素な作りで、木製のテーブルに椅子が四脚。そして大きな窓からは午後の陽射しが入ってきている。

「どうしたのさ。緊張してるの? もしかして」

 是鷹医院長は窓際に立っている若者に声を掛けた。

「別に……。ただ。もう、何が何だかよく分からないっつーか」

「あのさ。大事なのは君の選択だよ。ウチのクリニックに来た時に食欲不振だ、怠いって言ってたけど。彼女の方がもっと食欲不振なんだからね」

「え?」

「だからさ。よく考えなって」

 それだけ言うと彼はそこを離れ、今度は息子に近づき「こんな安っぽい椅子になんて腰掛けられないんだけどぉ」と文句をつけたのだった。

「よく考えろ……か」

 しばらくして部屋の扉がノックされた。それにすぐさま「はいどうぞ」と是鷹医院長が返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。

 そこには亜麻色の髪を肩くらいまで伸ばした紫の瞳の女性が現われた。彼女はゆったりとした白のローブを身に着け、無表情だった。まるで精気の無い、作り物のような顔。作り出された少し冷たさがある美しい顔をしていた。

「……マリア」

 だが、部屋の一番奥にいた若者、宮澤賢一青年がその名を口にすると、彼女は「……ケンイチ……」と、一気に顔を歪ませ、目から涙を溢れさせたのだった。そして彼女はゆっくり歩みだし、部屋の真ん中までいくと、そのまま駆け出した。そんな彼女を宮澤青年は受け止めるように、同じく彼女へ駆け寄り、二人は抱き合った。

「ごめん、マリア。あの時、やっぱり俺は残るべきだったんだ」

「違うっ。貴方は悪くない。あれは私がやったこと。これ以上、貴方を巻き込みたくなかった。危険な目にも遭って欲しくなかった。だから……でも……」

「俺こそお前の手を離さなければ良かっただけなんだ。だからもうっ。俺はもう、お前を今日限り離さないっ。俺はお前の傍に居るっ。ずっと」

「ケンイチ……」

「マリア」

 午後の陽射しに包まれた元勇者と魔法使い。その結末を残された三人は「君もアンナとあーゆー感じのシーンを演じたことあったよね」とか。「私とアンナは夫婦なので演技ではなく普通です」とか。「いちいち大袈裟な夫婦ですねぇ」とか。天使は周りから言われ放題になった。

 しかし目の前のロマンスを演じている二人は夫婦ではない。むしろこの二人の関係性は正確には不明だった。ただ、見ての通り、であることには間違い無い。

「ケンイチ。私は探していたの。ずっと。私の家族を。一族を滅ぼした魔王を。そして魔王を滅ぼす勇者を求めていた。それを杖が導いてくれた」

「魔王がマリアの一族を滅ぼしたのか……」

「ええ。私たちが大切にしていた大地の神を冒涜し、神の名を騙り、私の家族を、大地の神を讃え敬っていた大勢を殺した。でも神様は最後に私を守り救ってくださった。この神殿へ導いて下さった。だから私はここで大地の神に感謝と、一族、神殿で殺された皆の来世の幸福を祈って過ごしてた。でも。やっぱり。家族を。父や母、そして弟を殺した魔王が憎い。とてもじゃないけれど、その憎しみの心が邪魔をして、皆に対する安穏な心を向けられなかった。だから。魔王を倒し、全てを終えて、後は……祈る毎日を過ごしたかった。だから。貴方は。私の復讐の、ただの……」

「いいんだよ。そんな気持ちになる。誰だって。家族を殺されたら、そんなの普通だ。だから俺はお前が俺を利用したことに怒ってなんかはいない。むしろ手伝うよ。お前の為に」

「違うの。今はもう。私、貴方に出会って、貴方の真っ直ぐな心に気持ちが絆されて。復讐よりも、もっと別の生き方をしてみたくなったの。貴方が悪を討つことを、みんなのためになることならどんな困難で危険なことであってもやる。そう言ってくれたことに。そして実際に行動をしてくれたことに。その姿を見て。もう。復讐とか、悲しい気持ちになることを続ける事が、本当に辛くなって。疲れ果てた。そう感じて。止めたくなった。だから貴方に……」

「マリア。ごめん。俺もお前には何かあるんだろうな、と思ってたけど。でもしゃべりたくないみたいだったから、聞くに聞けないで。ただお前のやり遂げたい何かに力を貸して、そしてそれが成就すれば、お前が心から安らげるならって思って。でもそんなことじゃなくて、すぐにでも穏やかな気持ちになって欲しくて。でも、ああいう方法でお前の心が癒されて、気持ちが治まり穏やかにさせられたとしても。良かったのか悪かったのか。俺には分からなくて。だからちゃんと気持ちを確かめて、ちゃんとお前と向き合って、それからしっかり決めようとした。でもなかなかそれが出来なくて。男なのに。勇気が無かったんだ。だから本当にゴメン。逃げるような真似になって」

「いいの。こうして貴方が私の所をまた訪ねてくれた。それだけで私はとても救われた」

「違う。もう俺は。だから俺はもう決めた。お前と一緒になる。一緒に生きる。俺は……お前が好きだ。好きだから大切にしていきたいし、お前の苦しんでいる時に支えていきたい。今後は傍でずっと。もう逃げる事はしたくない」

「ケンイチ……」

「マリア」

 二人が良いシーンを作り上げているが、是鷹医院長は「こほん。二人共」と、ワザとらしい声の掛け方をした。

 「あのさ。ここで重大な話があるんだけど。いい?」

 彼は二人の前に歩み寄り、魔法使いにも来るよう言った。そして彼が抱きかかえている布に包まれた少年(遺体)の、顔の部分のみをそっとめくってみせた。

「この子、貴女の弟でしょ?」

「カ、カイル……。ど、どうして」

 抱き合っていた二人は一旦離れると、女性の方がとても驚いた表情をし、すぐさま少年の傍へと来た。

「この子は、以前の、神殿滅亡の時に殺されて……」

 女性は再び涙ぐみ「カイル、カイルッ」と呼びかけた。しかし返事は無い。

 代わって魔法使いが話し始めた。

「そうだったのですか? この子は大変に衰弱し、この中央大陸から離れた東にあるディナール帝国で発見されました」

「えぇっ!? そ、そんな馬鹿な」

「しかし発見されたのはディナール帝国です。しかし残念なことに、発見され、魔法医などが手厚い看病をしたのですが、その後、数日経って亡くなってしまいました」

「で、でも。神殿が滅ぼされる時に、私は確かに見ましたっ。カイルが首を落とされ、父や母も火あぶりされて殺されるところを……ああっ。恐ろしいっ」

「しかし、でも実際にこちらの少年はこうして、きれいなままで保管をされていたんです」

「ど、どういうことですかっ」

 すると今度は是鷹医院長が「ほら。こんなに小さな少年じゃない? きっと両親が探していると思ったんだよね。だから、ディナールの魔法技術で遺体を丁寧に保存し、行方不明者の捜索で該当者が現われたら、せめて遺体だけでも返そうと、魔法学院のこの先生がしてくれたんだよ」と言ってのけた。そして魔法学院の先生は「初めまして。魔法学院で教鞭を取っている、カルス・フォーファンです」と、こちらも初対面の人物にする挨拶をしてみせた。これを見ていた天使は内心「……役者だな、この二人は」と思っていた。

「最近になって、こちらの医師から問い合わせを受けまして。もしやと思い、こちらの方をお連れしたのですが。この少年は貴女の弟さんなのですね?」

「は……はい。ですが、この子は殺されて……」

「はあ。しかし、聞けば貴女。貴女御自身も大変な状況下に置かれていたのしょう? よもやそうした異常事態の中、錯乱し、怖ろしい悪夢でも見てしまったのではありませんか?」

「た、確かに……あの時は……。混乱して、私自身も普通の状況では……。でもカイルは……」

「ええ。私もロファの惨劇は知っています。大変惨たらしく、怖ろしい事が起こったと、心より悼んでいます。ですがその中でも、惨劇からは難を逃れ、しかし生き延びる事は出来なかった。本当にやりきれないお話です」

「魔道士様……」

「しかしそれでも。こうして家族の元へと還る事ができたことは、大きな幸いだと私は思います。良かったらご家族の貴女が埋葬をして差し上げたらと思い、お連れしました」

「そうなのですか……。ありがとうございます」

 彼女はそっと弟の頬に手を当てた。

「カイル。おかえり……」

 そしてそのまま小さな男の子に縋ってしばらく泣き続けたのだった。

  **  **  **  **  **

「医院長っ。おかえりっ」

 クリニックへ戻れたのは夕方だった。午後から休診、と書かれているプラカードが自動ドアに下げられている。西園寺クリニックにおいて、このカードが下がることは決して珍しいことではない。そんな時は、待合室で春人さんがヒナリさんと勝手に将棋や囲碁、チェスなどをやっている事が多い。今日は将棋をやっていた。

 そこへ是鷹医院長が「はー、ただいま。疲れた疲れた~」と現われ、二人ののん気な様に「閑人はいいね」と一瞥をくれる。春人さんはその言葉の意味を深く解釈していない心からの笑顔で主人の帰還を喜び、お茶の支度をすると言って給湯室へと向かった。

 そして昔ながらの旅館で使っているような大きな急須と、湯呑みを三つ、それから「夜はケーキを食べるのだろう? だからおやつは最中にしたよ」と、餅入り最中を茶菓子入れに並べて持ってきた。

「まったく。今回みたいなのは御免だよ」

「いやいや。普通の人間には起こらないことだからね」

 ヒナリさんの背中合わせになっている長椅子に、是鷹医院長は大きくため息を吐きながらドンッと座った。

 春人さんがお茶とお菓子を配る中で、是鷹医院長は首を右に左にと回して、最後に大きく伸びもする。

「それで医院長。結局、あの人間の若者は?」

「向こうで暮らすって」

「そうか。まあ、外事局が許せば認められる……ということなのか」

「いいや。今回の特例は、邪神による被害を受けた者の為に許された救済措置。その拡大解釈ってところかな」

「と、いうと」

「どんな理由であれ、特別権利が無い種族は空間を渡れない。その良い例が人表界と人裏界の人間同士。でも今回は邪神のせいで被害を受けた者が救済されるためには、その決まりを覆さねば救われない。邪神からの救済と、空間の取り決め事ならば、優先されるのは救済。そう最高神が決めたから。だからこっちに暮らしていたあの患者は、邪神のせいで心傷つき、生きるための支えが無いと生きられない人間のために向こうへ移住することが許された。っていうよりも、結局、勇者も魔法使いと好い仲になって、子供が出来ていたじゃない。なんなのっ。ニンゲンてっ」

「そ、そうだったのかい……」

「だから、しっかり子供の世話をし、教育や善い人生へと導くには、二親が揃ってた方が良いでしょう? まともな両親なら。莫迦なら要らないけど。あの迷子になった子の『親ぶった奴ら』みたいなのじゃなければ」

「まあ、そうだね」

「だからあの若者は準備が調ったら人裏界へ送る事にしたの。ま、やるのはうちの子だけさ」

「なるほど」

 結局。その後、マリアという女性が身重の為に体調がすぐれないということが分かり、宮澤賢一青年はそんな彼女を支え、そして家族となって生きていきたい事を訴えた。もちろん、それを反対する者はいなかったのだが、実際にどこでどうやって生活するのか。そこだけが問題だった。

「こちらの世界では、商売をする、公的な場所に務める、農業や猟師になる。まあ、すまーとほんげーむ、の中で選ぶような仕事を実際にやることになりますが。しかし、さらりーまん、である人がやれるものは思いつきません。それなのでやってみたい事や得意なことはありますか?」

 と、魔法使いの人が就職カウンセリングをしてくれた。

「俺が出来る事は絵をかく事くらいで……」

「申し訳ありませんが絵描きはこちらの世界でも、家族を養うほどの収入は得られません。それにミヤザワサン。貴方はこちらの世界のルールをよく分かっていませんよね?」

「ま、まあ。少しだけ冒険まがいの事をしたくらいで」

「それなら」

 魔法使いが提案したのは、この中央大陸から海を越えた東大陸のディナール帝国にある魔法学院で、雑事をしながらこの世界を学ぶことだった。

「あそこなら、私の魔法使いとしての兄弟子が学院長をしています。彼なら異世界についての理解もあります。又、私も時折、授業で学院には顔を出します。ですから貴方にとって有利に生きられる場所です。しかし、一方でディナールは光の神を信仰している国。この大地の神を信仰しているファルセスとは文化や風習、そして、何より向こうは魔法が盛んな国。奥様になられる方には、貴女自身もまた、別世界へ飛び込む感覚になるかも知れません。そちらは大丈夫でしょうか?」

 するとマリアもしっかり頷き、一緒について行くことを選んだ。

「新しい場所で、新しい生活をしていきます。ケンイチと生まれてくる子どもと」

 その後、彼女は神殿内の敷地にある共同墓地へと弟を丁重に埋葬し、神殿からは信徒として破門をしてもらい、彼女もまた準備が調い次第ディナールへと旅立つこととなった。

「しかし医院長っ。いくら向こうの世界で暮らすことを選択しても、やはり先立つ物が無いとやっていけないよ。もしも必要なら僕が都合をするよっ」

 春人さんは自前のジュラルミンケースを持ってきて、それをパコっと開けようとする勢いだった。

「莫迦。こっちの紙幣は向こうだとただの紙切れだろう」

「でも医院長。春人君の言う先立つ物。当面の生活に困らないような紙幣貨幣は、向こうの人間界も必要だと思うんだがね」

「ああ。それについては、お人好しで面倒見の良い就職カウンセラーがお節介をやいていたから。いいんじゃな~い」

「お人好しのお節介さん??? あ、カルス君だねっ」

「だからさっ。お前は変な所が鋭くて、ホント、困るよ。厭な奴ぅ」

「ん???」

 事後処理として、魔法使いが様々と生活面の支援と、それに係る費用などの世話をしてやったという。

「やはり被害者支援に携われるのであれば、自分自身で行ないたいものですから」

 面倒見の良い魔法使いこと、現在、悪から解放されたカルス。彼は真っ当な人間に戻り、邪悪を乗り越え真の大地の神継承者として、ようやくそれを引き継いでいた。そして大地の神として数多存在する空間のうち、主に故郷の人裏界ともう一つの人間世界・人表界を守護する為、表(とはいえ、便宜上、裏表と呼ばれているだけで大層な意味はまったく無い)世界の拠点として、ニホン国のド田舎天川市でケーキ屋さんを営みパティシエをしていた。しかもかなり繁盛している。だからやめるにやめられず、住居もこちらへ移し、家族を持って共にこちらの世界で暮らしていたのだった。

 けれど時々、故郷の魔法学院へも赴き、魔道士、魔法使いの後進の指導もしている。特別講師として。だから彼は、若い未熟な夫婦へと、魔法学院から受け取ったその報酬給金をすべて渡したそうだ。

 それから途中でその存在が消えたような形になった医院長の息子、天界外事局の長でもある天使も、宮澤賢一氏がこちらの世界で始末を着けなければならない事などを手助けしてやった。

「君は会社の辞め方も分からないのか?」

「はあ。何とか届けを書かないとダメなんスよね」

「退職届。辞める二週間前に提出。それから会社で入っていた健康保険証を返却し、今度は国民保険へと切り替えを一応やらなければならない。天川市役所に。それから厚生年金が国民年金へ変更される手続きも。それがたとえ二、三か月のことであっても。しっかり規則は守り、その上で自然な形で移動をしてもらわないとならない」

「面倒なんですね。あ、でもその前に有給を消化した方がいいんですかね? それからいつアパートを引き払うか。その後は少し実家で厄介になって」

「時間の掛かるものだ。一人の人間が消えるということは」

 医院長の息子さんはニンゲン界でも活動をすることがあり、その時には財団運営者と会社経営者という立場だった。それなのでこちらの世界の仕組みも熟知している。宮澤氏よりも詳しいので、彼が社会人としての必要な手続き処理を本当によく面倒をみてやった。そしてそれが全て済むと。遂に、宮澤賢一は、特例措置で魔法の存在する別のニンゲン界へと正攻法で転移されることとなった。


 来たるべき日。こちらの世界では年の瀬が差し迫った十二月二十九日のことだった。

「いいですか、宮澤賢一さん。私は両世界を行き来できます。しかし貴方は違います。ここを離れたら、もう二度と帰れません。なぜなら私は両世界を渡る資格と能力があり、一方の貴方は、両世界の往き来が出来る能力と資格がありません。それなので最後の問いです。本当に人裏界へ行くことを選びますか」

「はい。俺、今までの人生、本当に何もかもが中途半端だったつーか。でも、マリアに出会って、何て言うか、その、こっちの方向に行ってやるっ。今、やっと行きたい道が見つかった。そんな気持ちで、やる気満々で気持ちが満っち満ちなんですっ。行ってやるぜっ」

「はあ。まあそれならそれで私はいいですけど」

 十二月二十九日。午前六時五十五分。西園寺クリニックから車で十五分、山の方へ向かった所にある緑地公園。そこは今まさに山の稜線から陽が昇り始めたところだった。

 公園の遊歩道には、あまりの寒さに早朝散歩を楽しもうだとか、ジョギングで体を鍛えようとするものはまだいなかった。気温は氷点下一度。そんな寒空の旅立ちだった。

「もうすぐお正月だよっ。それでも行ってしまうのかいっ」

「え? あ、は、はい。向こうに行ったら正月も節分も無いッスからっ」

「お餅は食べなくていいのかいっ。向こうには無いんだよっ」

「大丈夫ッス。それに俺、もともと餅、そんなに喰わないんで」

「そ……それは。残念だよっ!!」

 見送りは、魔法使いのケーキ屋さんと西園寺クリニックからは春人さんがやって来ていた。医院長は「は? 行くわけ無いじゃない。寒いでしょ~。行きたい人が行けば~」と、絶対に言いそうなことを言って、案の定だった。

 それなので、医院長の息子さんが本日は天界外事局長の天使の姿で、三人の前に現われた。そんな彼は言う。

「では宮澤賢一。貴方の特例措置を実行する。これから私が貴方をこの地上から連れ、他世界へと出でる。それにあたり、先程、魔道士殿がおっしゃった通り、君は二度とこの地へ帰る事は出来ない。たとえ向こうに住まう配偶者であるマリア・カシュフィートが先に死んでしまっても。人の生とは、その生涯に何が起こるかは全く分からないものだ。それでも、だ。貴方はそれでもこの地を捨て、他世界へと往く。その覚悟はあるか?」

「……はい。それでも」

「この人間界をいつかは還る事の出来る地、望郷の地、とは願うことも許されない。それでも立つか」

「それでも、行きますっ。もうマリアが、いいや、俺も、もう待ち焦がれてるんですっ。一刻も早く二人で生きたいんです」

「そうか。ではここで」

「それに是鷹医院長が言ってたんです。俺に最後、健康診断してやるって言ってくれて。そしたら、そん時に俺はスッゲー健康優良児だって。だから何かあっても、その有り余る健康体で乗り切っていける。乗りきっていけって。どこの場所だって、食事と睡眠をしっかりとって生活をしていけば、俺はじーちゃんになるまで真っ当に生きていけるって。だから真っ当に生きろって。家族を守って、しっかりしろって」

「そ、そんなことをあの人が……」

「はいっ。だから、俺、行きますっ。連れてってください。お願いしまっすっ!!」

 冬の朝陽は強烈なオレンジ色で、まさにやる気満々で気持ちが満っち満ちの若者を照らしていた。

「とてもよい旅立ちの言葉ですね」

「うんうん。さすが医院長……ルートヴィッヒだね」

 そんな青年の姿を見送りに来た魔法使いと春人さんは、本当に彼が眩しく目に映っていた。その若者の決意に、保障も、根拠も無い、まさに冒険の旅へと出て行かねばならない、厳寒の冷気が吹き付けていた。しかし、その強い気持ちはまるで温かな春風のようで、見送りの二人の心も、まるで春の陽射しを感じる思いがした。

「それではお気をつけて」

「たしかに食事は健康の秘訣だよっ。しっかり栄養を摂るんだよっ」

 朝焼けの空に青色が混じり始めた。そんな中。この旅立ちを何と呼べば良いのか。門出なのか。終焉なのか。この世界は、今、一人の若者を喪失する。だがそれを悲観でなく、昇り始めた陽と同じく、善き日々を刻む希望であると。曾て闇を見てきた者たちは、彼の姿に少し救われた気持ちになった。

 十二月二十九日。宮澤賢一という人物はこの世からいなくなった。その七年後。失踪宣告が家庭裁判所によって下り、完全にこの世界からの離脱は完了するのだった。

    是鷹おじさんとイセカイテンセイのケン・了