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《第1話 広瀬中央公園に奇術師現る》
(一)
西園寺鷹一(さいおんじたかいつ)。肩書は音楽事務所〝オフィス・S〟社長。年齢は公表していない。但し、世間の見立ては三十代半ば。ブランド物のグレーのスーツで完全武装し、業界を冷静、且つ、確実な戦略によって渡る若きやり手経営者。つい数週間前、そんな見出しで大手ビジネス雑誌を飾っていた。
そんな時代の寵児の目の前で。
「さあどうだ。ワタシの使い魔になれ」
意味の分からない言葉を言い放つ、むしろ叫ぶ男が立っていた。
何なのだろうか。
鷹一は左の目尻が痙攣し、それを察知した瞬間。ジャケットの内側からサッとスマートフォンを取り出し。
「もしもし。廣瀬市(ひろせし)の中央公園内で男が錯乱しています。えぇ、成人男性です。そうです。凶器のようなものは持っていないようですが。はい。私に怪我はありません。しかし、はい、そうです。手が付けられません。なるべく急いで警官をお願いします」
と、冷静、且つ、人間であれば一番正しい対処法を取った。
「と、言う訳だ。しばらくここで待っていれば貴方の話を聞き、然るべき救いの手を差し伸べてくれる人間がやって来るだろう」
彼は更に冷静、且つ、背筋が冷え冷えするような低い声で正面の男に言った。
秋の深まった夜。屋外の空気は澄んでいた。そして寒々しい。街灯に照らされた生気の無い枯れ葉が風によってアスファルトの上をカサカサと摩っていた。
「ワタシはただの人間などの助けは必要ない。話は単純な事だ。貴様がワタシの使い魔に」
「ならない。むしろ貴方の言っている意味がよく分らない」
第一、男が言う〝使い魔〟なるものとは一体何を指すのか。仮に〝部下を求めているリクルート活動の一環〟であるならば、ハローワークなどで正規の手続きを踏み、きちんとした求人登録をすべきだろう。又、彼の求めている〝使い魔〟がアニメーションや携帯ゲーム、漫画及び小説等に出てくる〝召喚の際に取引、契約をし、従僕関係を結んだ存在〟などであった場合は、通りすがりの人間にいきなりそんな事を言い出している時点で、警察に通報されるのは当然であろう。俗にいう、心にお風邪を召している。と、いうケースである。
鷹一は改めて後者の人間だと判断し対応をした。そして改めて、目の前の男を見た。
男は自分と同様にスーツ姿だった。しかし今夜は薄ら寒い。鷹一はハーフコートを羽織っていた。しかし男の服装はスーツのみ。やや黒みがかった臙脂色の上質な生地の上下。老舗のテーラーででも仕立てたのだろうか。しかし、今夜の気温を考えると、手袋やマフラーなどを着用してもいい外気だった。男はそういったものではなく、黄染めの薄いスカーフを襟元に巻き着けていた。見栄えはするかもしれないが、保温効果があるようには見えない。
その他の身体的特徴といえば、細面で目つきが鋭い。人を射貫くような眼光を宿している。一見、堂々たる紳士、とも言えなくはない。が、鷹一にとっては、単に目つきが悪い中年にしか見えなかった。業界にはもっと禍々しい者や曲者が大勢いる。そして自分もそこを渡る一人。最初から臆する必要が全くない人物だった。
「――ならば。お前の力を試させてもらうっ」
男は突然、両腕を水平に広げ「出でよっ。我が忠実なる下僕どもっ」と叫んだ。
鷹一と男の間にはおおよそ三メートルの距離があった。そこに赤い光が走り円を描く。円の中には線に沿うようにアルファベットや奇妙な図形が、次々と勝手に描かれていった。
「一体、どんな仕組みで、こんな事が出来るんだ……」
「さあ我が言葉に従え。いでよ悪魔っ。ブラック・ゾンビッ」
「そんな……」
男の言葉に鷹一は愕然となった。
目の前の妙ちくりんな光のパフォーマンス。スキルや魔術。そして男が口走った言葉。ブラック・ゾンビ。そんな。そんなっ。……ダサいネーミングッ。センスが無さ過ぎるにもほどがあるっ。
一瞬、目眩がした。
「お前は、これらと格段に『強さ』が違う悪魔。さあ、その力を。ワタシに示してみろっ」
男が作ったと思しき赤く輝く円の中には、肉体が朽ち果てたような人型の何かが、よろよろウロウロしていた。彼らは眼球の部分が欠損していたり、手足の肉が爛れ千切れていたりした。そんなのが十体ほど現れた。
「な、何なんだ……?」
薄気味悪さは感じた。けれどこのご時世、そんなものはいくらでも目にする機会はあった。例えば先月の三十一日には、ニューヨーク、トウキョウの街などに、そうした姿を好んでやって、よろよろウロウロしていた人間が大勢いた。まさかその残党……。
「さあ、ワタシにお前の力を見せてみろっ!!」
「いや。そんな手品の練習は、他(よ)所(そ)でやっていただきたい。確かに大掛かりなパフォーマンスだ、ということは認める。しかし生憎、私はアーティストを育てているのであって、コメディアンや漫才師、手品師、魔術師(マジシャン)などは門外漢だ。そしてオーディションや飛び込みでの売り込みは受け付けてはいない。残念だがもっと他を当たって欲しい」
「なんだとっ。黙って力を」
「貴方こそ、大人しく、そのマジックで出したものを早く引っ込めた方が良い。じきに警官がやってくる。そんなモノが居ては、もしかしたら発砲されるかも知れない」
「だからワタシに力を」
「悪いが私は急いでいる。たしかに貴方は、色々な意味で、他人からの手助けが必要な人間であると私も思う。まあ自分でも、手助けが必要と言っているくらいなのだから、まずは市民の相談を聴いてくれる公僕に話をしなさい」
鷹一は体を反転させ「やはり市民ホールでタクシーを呼ぶべきだった」と、携帯を素早く操作し「廣瀬中央公園までタクシーを一台」と電話口で静かに言った。
コンサートホールから車を使うと、五分で最寄駅に着く。だから迎えなどは必要ないと高を括った。しかしそのたった五分間で、こんな厄介な目に遭うとは。
鷹一はため息を漏らす。今夜は本当に冷える。彼は冷たい風に当たって思った。つくづく夜道とは恐ろしい、と。こんな冷える寒空の下、手品師が防寒用の衣類も羽織らず(もしかしたらあの格好が、彼の定番ステージ衣裳なのかもしれない)突撃イリュージョンを仕掛けてくるとは。いくら芸能はインパクトが大切だ、といえど。アポイントメントを取らず、しかも道端で奇術をやり出しアピールをしてくるこの行為。失礼だとは思わないのだろうか、この人間は。
「とにかくそこの人。再三言うが、今出したマジックの道具だけは、しまっておいた方がいい。本当に発砲されてしまう可能性がある」
公園入口へと歩き出した直後、一旦振り返り、念のため忠告をする。
だが鷹一の目に映った光景は、魔術師(マジシャン)が複数の黒い影の様な物に囲まれ、一番真っ当な人間に見えるはずの彼に襲われかかっている姿だった。
「お前たち、私以外の人間を、あっちの方の人間を襲えっ。命令に従えっ」
あれは誰がどう見ても、段取りがなっていない。それともそういう運びのシナリオか。
「魔術(パフォーマンス)自体も最低だ」
鷹一は無表情のまま入口へ向かって歩き出す。そして公園口を出たタイミングで迎えのタクシーが到着。さっさとドアが開き、客である彼が乗り込む態勢を調えていてくれた。
「新廣瀬駅まで」
車内に入り目的地を告げると、警察車両のサイレンの音が聞こえてきた。おそらく、これでなんとかなるだろう。
――――――――――――――――――――――――
「兄さんっ。大丈夫だったのっ!?」
翌日。事務所へ出社し、仕事部屋である社長室の扉を開けると。いきなり怒声が浴びせられた。
「義姉(ねえ)さんから聞いたけど、昨日、ライブの帰り道で変な人間に襲われそうになったんでしょう?」
「変な」
と、言われ。鷹一は一瞬「はて。何のことやら」と疑問に思う。
昨日はたしか、この事務所所属のジャズシンガーと、地元・廣瀬(ひろせ)市出身のアーティストのジョイントライブを聞きに出かけた。全曲聞いて楽屋に顔を出し、それから後日打ち上げがあるからと参加を乞われ、会場をあとにした。そして会場から駅までが近かったので徒歩で駅に向かい、途中の公園でやっぱりタクシーを呼び、夜も遅い時間だったので事務所へは寄らずに直帰した。
「特に何も無かった気がする」
「嘘を言わないで。だったらお義姉さんがワタシに冗談を言ったとでも?」
「アンナは嘘など吐かない」
「じゃあどこでどう襲われたっていうのよ」
「そう言われても」
ヒットマンに狙われた覚えも、暗殺者から奇襲や急襲を受けた覚えもない。
「ま、仕事を膨大に抱えている兄さんの事だから、些細な事をいちいち気に掛けてはいないでしょうけど。でも、だからこそ義姉さんは、そんな忙しい兄さんのことをいつも心配しているのよ。あまり心配を掛けないことね」
「それは君に言われるまでも無い」
自分は妻に心配を掛けるような事を絶対にしていない。大体今朝も彼女は「ご無理をなさいませんように」と、笑顔で自分を送り出してくれた。彼女の、アンナの笑顔は、柔らかい春の日差しのように暖かく、何と言っても可愛らしい。歳よりかなり若く見え、小さな動物のような、いやいや、リスやフェレット、ロブロフスキーハムスター、などお話にはならないほどに愛らしい。本当に可愛らしく素晴らしい女性なのだ。
そんなどこの誰よりも可愛らしく素晴らしい妻を心配させる事などしたくはないし、もしそんな事をしたら自分は死んだ方がマシだ、と鷹一は本気で思っている。だからそんな事はしていないはずだ。
「ちょっと兄さんたら。眉間に皺を寄せるほど考え込まなくてもいいんじゃない? これだから愛妻家は困るわね。って言うよりも、困った愛妻家よね」
妹は呆れ顔になりながらため息を吐き、部屋の中央に設えてある応接用の革張りのソファへと座る。彼女は歳が近いせいか、遠慮の無い物言いをしてくる。しかも妹は鷹一と対照的で一流の調度品に腰を落としても、彼女に合わせ設えた物に見せる貫禄があった。そして、華やかな顔立ちをし、社交的な性格もしている。だから現在、彼女にはこの会社の対外的な仕事を任せていた。肩書は副社長。彼女はその成果を期待以上に出してくれている。一方でそんな堂々とし、自信に溢れる彼女に、鷹一が言葉を詰まらせる事がしばしばあった。
「芽衣子(めいこ)。困った事をしているのは君の方だ」
だが今日は違う。鷹一もテーブルを挟んで妹と向かい合わせにソファに座った。そして自前のノートパソコンをテーブルに置くと、それを起動させ、画面が映し出されると幾つかのファイルを開いた。それを彼女の方へ向け、妹を見据えた。
「最近ここの運営は、実質、全て君に任せている。営業活動は勿論だが、アーティストの管理、彼らのマネイジメントをする者達の統括、経理に事務、何でも君の自由にして良いと言った。だがやるからには、それ相応の成果を上げてもらわねば困る」
画面に写し出されているのは棒グラフに折れ線グラフ。しかもそのほとんどが、なだらかに右肩下がりになっていた。
「芽衣子。確かにこの事務所は、我が西園寺財団の金が余っているから立ち上げたものだ。言わば道楽。しかもお前が気に入った、当時インディーズで細々とやっていたバンド〝edge(エッジ)〟のバックアップをしたい、という個人的な理由で作った会社でもある。そして現在、彼らは小さなライブハウスから野外アリーナでパフォーマンスが出来るアーティストへと成長した。だから当初の目的は達成されたと言える。だが、この事務所を会社として持続させてゆくとなると、最早、単なる好きなバンドを支援するためだけの運営では駄目だ、ということも分かっているな?」
鷹一はパソコンのグラフと妹を交互に見た。
この会社を始めたのは家族の為だった。と、いうか。妹がどこの誰とも分からないインディーズバンドにどハマりした。 そしてハマり過ぎて家出をしたり、追っかけを毎日くり返すようになった。
〝別に悪いことしてる訳じゃないんだから良いでしょっ〟
確かに彼女が不純異性交友やら、危ない若者同士の交流をしている訳では無かった。しかしだからと言って、西園寺家は一応〝名家〟として通っている。そこのお嬢さんが家出を繰り返す事は、社会的な信用が落ちると言えた。そしてなにより「やるのであれば徹底的に、手を抜いてはならぬ」を家訓としている西園寺家。つまり気に入った歌手がいるなら〝ちゃんと〟応援しなさい、ということで。家族が妹に対して〝ちゃんと〟応援出来る場を提供した。
それが音楽事務所オフィス・Sだった。
で、さらにちゃんとするため。会社を立ち上げるノウハウもなければ、会社を存続させる手順も分からない妹のため、すべてが軌道に乗るまで西園寺財団を率いる兄の鷹一が「ついでに」社長をする事になったのだ。
「このまま順調にいけば、今年中にこの事務所を君へ渡せるのではないか、と考えていた。もう様々な部分で、心配が要らないと思っていたからだ。だがここにきて経営が芳しくない」
グラフが上向きではなく下降線。いわゆる梃入れが必要な状況と言えた。しかし妹の方は違うようだった。
「そうかしら? 今だって所属している八組のアーティストは、それぞれ軌道に乗って素晴らしい音楽活動をしているじゃない。勿論、活動の幅も広げているわ」
そう言って、怪訝な顔、いや、不機嫌な表情をさせた。
「たしかに現行の彼らの活動に問題がある訳じゃない。皆、よく邁進している。だが私が言いたいのは、現状維持では駄目だ、ということだ」
「現状維持で何がいけないの? それに多少の落ち込みも一時的なものかも知れないでしょう。だって兄さん。この事務所は始めてまだ三年よ。むしろ三年でアーティストを何組も増やして、そのほとんどをメジャーデビューさせた事に、もっと誇りを持つべきじゃないの?」
「芽衣子。確かに三年間の成果としては良い方だと思う。が、事務所のアーティストたちが、有意義な音楽活動をする為には、潤沢な資金が必要であることも現実だ。このまま収益が下降していったら、ここぞという時にチャンスを逃しかねない」
「それはそうかもしれないけど……。でも兄さんっ。それについては兄さんのこだわりもいけないのよっ。玄人ウケばかりにこだわって。そういう人材を集めて、活動をさせて。硬派過ぎるのよ」
「別にそんなつもりは無い。私はただ、昨今の業界の在り方に、ウチのアーティストを巻き込みたくないだけだ。ここに所属している者たちはあくまで音楽人なんだ。テレビに出る事よりも海外進出。音のプロであって欲しいし、その為になら金をいくら出しても構わない。ただ有名人になりたいのなら、他所でやってもらいたい」
「だからそういう〝硬派な活動〟と〝売上〟は比例しないって言っているの。もっと儲けになるような、例えばアイドル要素の強いアーティストなんかも少しは必要って事よ」
「アイドル? 私はアイドルなど置きたくない」
「だからアイドルじゃなくて、そういう要素が強いアーティスト、でいいの。勿論、歌はバッチリだけど、それだけじゃないってことよ。そうね。例えばアーティストに付随するグッズが売れるだとか。あとは歌以外にも何か特徴や特技を持っているとか。顔が良いだとか、それから、あぁ腹話術が出来る、みたいな感じで……」
「却下。どうしてアーティストが腹話術もしなければいけないんだ」
鷹一はため息を吐いた。なぜ音のプロに腹話術を求めなければならないのか。妹は真面目に考えているのか。
「ならば一層のこと、パリのコンセルヴァトワールから一流のヴァイオリニストでも連れてきて、シャンソン歌手とジョイントをさせた方がよほどマシだ」
「だからっ。そういう格式ばっかり高いのを揃えようとするから売れないのよ」
「だったら芽衣子。私が納得するような企画書を出すんだ」
「企画書ですって? ホントに面倒な方ね、兄さんは。何でもかんでも書面にして提出させるなんて。ここは役所じゃないのよ」
「企画書の無いものはただの絵空事。それから、先日、このビルへ入る警備会社の契約書にも目を通しておいた。どうせ君は適当にサインをし、先方へ渡すつもりだったんだろう」
「なにか問題? 第一、警備会社は龍造(りゅうぞう)伯父さんの会社でしょ? おかしな契約内容を提示なんてしてこなかったわよ」
「そんなことは分かっている。問題なのは、君が派遣要請した警備員の数だ。このビルに警備員を四人は多過ぎる。入り口に一人で十分。余計な経費は削減すべきだ」
「んもぉっ。四人で何かがいけないのっ。今の時代、会社の安全面の充実は、企業運営の必須事項よ。そこをケチるなんて、本当にガッチガチね、兄さんは。こんな人が社長じゃ、それこそ音楽人たちの豊かな感性が伸びないわよ」
「無論、安全確保は大事だが、抑えられる部分の経費を抑える事が企業経営の基本。よってこのビルの規模から考え、警備員は入り口に一人で十分。藤島警備保障にはそう伝えておくように。そして話は以上だ。企画書は今日を含めあと二日だけ待つ。意見が出せなければ今年、君に社長を譲る件は保留にする。わかったか、芽衣子」
様々な面で「ちゃんと」しないと気が済まない社長はパソコンを閉じ、
「今日はこれから人と会う事になっている。藤島の伯父さんにはくれぐれもよろしくと伝えて欲しい」
鷹一は早々に社長室から退出をした。
「もう。変な所がセコイのよね、兄さんて」
フンと鼻を鳴らし、兄を見送る妹は「でもいざって時には警備員が一人じゃ心配よね」と、渡された契約書を仕方なく書き直す。
その直後だった。
廊下の方から「警備員をっ。藤島警備保障にっ。むしろ警察に電話をーっ」と、兄の声が聞こえてきたのだった。
「大いなる力。偉大なる存在。ついに見つけたぞ、大悪魔っ」
二階東側。廊下の突き当たり手前に、ガラス張りで区切ったフリースペースがあった。数台の自動販売機が並び、デザイナーズチェアも設置された談話ロビーだった。そんな憩いの場の真ん前で、明らかにこのビルの関係者ではない者がいた。
「今日こそ、死の闇をも凌駕するお前の力を、我が前に晒すが良い」
小春日和の穏やかな午前の陽射しが、廊下の大きな窓から燦々と降り注いでいた。その下に、上質な臙脂色のスーツを身に着け、良過ぎるほど正された姿勢の立派な紳士が立っていた。そして鷹一を指差し「さあ悪魔。真の名を私に捧げ、その正体を見せろっ。下僕となるのだ」と、一所懸命に叫んでいた。しかしこの人物は、どれほど一所懸命であっても、部外者は部外者。不法侵入者でしかなかった。
「申し訳ないがここは一般の方、関係者以外の人間は立ち入り禁止になっている。警備の者は来週から来る契約となっているから、うっかり迷い込んだのかも知れない。しかしここが己が人生に置いて、自分自身でも一切関係無い場所であることくらい、自力で判断できるだろう」
ビルの表には、地下二階から地上五階まで、オフィス・Sの社名入りプレートがしっかり入っているはず。しかも地下層には、ちゃんと音楽スタジオ名も入れてある。それを見たら自分関係無いと一目瞭然で判断できそうなものである。
にも拘わらず、スーツを着込んだ見た目は小奇麗な男は「悪魔」だとか「正体を見せろ」だとか「手下になれ」だとか。一体、何を思ってやって来たのか。謎過ぎる。
「ちょ、ちょっと兄さんっ。何よ、あの人は」
「わからない。突然やってきて意味不明な事を捲くし立てている」
「ファンが乱入してきたの?」
「そうじゃない。現状を見たまま。私に対して下僕になれだとか、悪魔めだとか。とにかく失礼極まりない事を言っている」
「は? なにそれ。ゲボク? アクマ? アーティスト志望が新手のアプローチってこと?」
「違う。ここは健全な音楽事務所だ。カルト関係者など募ってはいない。私は自分の音に誇りを持った音楽人を育成している。そのための資金援助もしている。それだけだ。第一、それ以外の人間には、本来、関わりすら持ちたくもない。大体、それ以外の人間などに用も無い」
鷹一は懐から銀色の懐中時計を取り出し覗く。針は午前十時二十五分をさしていた。
「すまないが芽衣子。私はもう時間が無い。あと五分で約束の時間になってしまう。だから君が来客の対応をして欲しい」
「ちょっと。あんな人、お客様には到底見えないわよ。もうっ。だから警備員は四人くらい必要なのよ」
「その話はもう終わっている。あのような人間が来ようとも、警備に四人は必要無い。今はとにかく、あの訳が分からない人間をどうにかしないと邪魔だ。君がそれの対応に苦慮するというなら、今日から藤島警備保障のガードマンを呼んでも構わない。但し、一人だけ。今はなによりアーティストの安全の確保が最優先だ」
「その前に警察を呼ぶ方が良いわよっ。天川警察に110番が先だわ」
「分かった。もう自衛隊でも爆発物処理班でも何を呼んでも構わない。君に任せる」
「じ、自衛隊っ!? んっもーっホント兄さんて人に任せた瞬間に、どうでもよくなるんだからーっ」
鷹一はその時すでに体を反転させた。
「逃げる気か大悪魔っ。口ほどにも無い奴めっ。貴様の実力とはその程度かっ」
別の通路からビルを出るしかない。それというのもこういう人間がいるから。口ほどにも、と言っているが、それほど会話もしていなければ、一体、何の実力を見せろというのか。全くもって言っている意味が分からない。あんなモノに関わっていては時間の無駄。早くしないと約束の時間に遅れてしまう。
「おのれっ。今日という今日は、地の果てまでも追い詰め、必ずや私の僕にしてやるっ」
「……はあ。やはり今日から警備員を呼ぶしかあるまい」
鷹一は仕方なく携帯電話を取り出した。そこに登録されている膨大な連絡先の中から一つ番号を選び出すと、画面に軽くタッチした。二コールして相手が出ると、鷹一は自分の名を告げ、急遽ガードマンが必要になった旨を伝える。すると先方は「お話は承りました、西園寺様。大っ至急、現場に警備員を向かわせまっす!!」と、若い男が快諾してくれた。さすが血縁の付き合い。こういうものは大いに活用すべきだと思いつつ、やけに張り切った口調の男性社員だな、と思いながら、鷹一は振り返りもせず静かに廊下を歩き出した。
「――ってな訳で。さっそく藤島警備保障、参上仕(つかまつ)りましたっ」
対処不能な現場から三歩も移動していないタイミングだった。背後で聞き覚えのある若い男の声と、ドカッズカッバコッという奇妙な音がした。それから「きゃーっ」という妹の悲鳴。加えて「な、何をするんだっ。ワタシを誰だと思っている。高貴な血筋の穢れ無き魔術師なのだぞーっ」という、どうでもよい叫び。
「神妙にしろ、オッサン。ここは神聖な音楽を売り買いする尊い場所なんだ。ココロに風邪ひいちゃってる売れないチンドン屋が入ってきて良い場所じゃないんだぞっ」
「うるさいっ。ワタシはただの人間風情に用が無ければ興味も無いっ。放せっ」
「俺だって女じゃ無ければ美女でもないヤローに用は無いっ。とっとと失せろっ」
非常に耳障りな言い争い。おそらく、いや、確実に、振り返るとロクな事が起こっていないのは明白。そして無駄な時間を取らされる事は確定。預言者でなくても分かった。しかしこの事態を収拾しない方が、後に更なる厄介事となる予想もついた。
「私は警備会社に連絡をしたつもりなんだが」
深いため息を吐き、仕方なく振り返った。そこでは見事な捕り物帳になっていた。臙脂のスーツ姿の紳士が、後ろから張り倒されジタバタと暴れている。そんな憐れな彼の背の上には、長身の男が不審者の両腕を組み伏せ片足で押さえつけていた。
「なぜ君がやってきた、辰夫(たつお)」
「なぜも尾瀬もないですよ、鷹一さん。電話の番号、間違えて押しちゃったのはそっちじゃないッスか」
「番号……」
不審者を取り押さえている男は笑いながら鷹一を見上げていた。番号間違い……? そう言われたところで何のことやら。鷹一は手にしていたスマートフォンの履歴画面を見る。すると一番最近に発信した所に〝藤島興信所〟があり、一分前に電話を掛けていた事になっていた。
「番号選択を間違えた」
「でしょー。鷹一さん、しょっちゅーやるでしょー。今月に入ってもう三回目ッスよね」
男は軽い口調で言った。その装いも袖無しの青いダウンベストに格子柄のネルシャツ。それから細身の黒いジーンズというラフな格好をしている。到底ガードマンには見えなかった。
「近いも何も、警備会社は俺のオヤジの会社なんですから。同じ苗字が並んじゃうのに決まってるでしょ。だから前も言ったじゃないッスか。どっちかを平仮名にするかカタカナにするか。区別がつくようにした方が良いって」
「私は他社の番号を正式名称で入れておきたい。社会人として当たり前の作法だ」
「でもそれで間違い電話を掛けちゃうンじゃあ社会人としてどうなんです? 意味無いっしょ」
辰夫と呼ばれた男は「もうホントにカタいッスね~鷹一さんは。変なトコは抜けちゃってるけど」と、なぜか喜ぶように声を立てていた。さすがにその発言には鷹一も顔をしかめた。心外だ、と言いたい。が、事実は事実。不愉快だった。気分が悪い。
「そうなのよ。兄さんたら今朝からおカタい事ばっかり言って。挙句に、自分はこれから人と会うから、その不審者をわたしに押し付けてきて。本当に困ったわよ。でも貴方が来てくれたお陰で助かったわ、探偵さん」
「よう芽衣子。お前さんも良い兄ちゃんを持って幸せだな~」
「ちょっとやめてよ。そういう貴方だって素敵な従兄を持って幸運でしょ。電話一本で何でも命令してくるやり手社長が御親戚で」
「ああ。時々、涙が出るほど笑かしてもらえるからな。最高だ」
「わたしも心の大らかな従弟を持って幸いだわ」
「だろー」
妹と従弟の会話に自分の顔がますます険しくなっていくのを鷹一自身も感じた。そしてその様子は、粗忽者達へも伝わったらしく、不審者を捉えていた従弟は「ところでコイツ、どうすんだ?」と話を変えた。彼の足元を見ると、中年紳士が未だにうごうご、と足掻いている。すっかりその存在を忘れていた。
「とりあえず警察に突き出すことが妥当だ。ナイフなどの武器は所持していないようだが、意味不明な事をわめいて、周囲に多大な脅威を与えてくる」
「じゃ廣瀬(ひろせ)東署に電話だな。知り合いの刑事が喜んですっ飛んでくるはず」
「誰が、どんな気持ちでやってくるかは関係無い。問題さえ早急に解決すれば、私はそれで良い」
「はあ。相変わらずクールっすね~。じゃあ後始末ってゆーか、警察に引き渡すのは俺がやっときますよ。これも電話番号を間違えちゃった縁って事で」
「すまない。と、いうか一言余計な気がする」
「まあまあ。人と会うんでしょ? 早く行った方が良いンじゃなッスか、鷹一さんは」
「ああ。やっと取れた休暇で、こちらの業務にも専念できるという矢先。少し厄介な交渉とその調停を頼まれた。だから悪いが後のことは頼む。それから芽衣子。君は企画書をちゃんと仕上げておくように」
「わかったわよ。もう、いちいちうるさいんだから。さっさといってらっしゃい」
鷹一は従弟に謝り、妹には仕事の念を押すと、その場からやっと解放されることが出来た。実に約束の時間から五分も過ぎていた。彼にとってはあり得ない遅刻だった。
「おのれっ。大悪魔。お前は悪魔のくせに人間に恐れをなしたか」
そして廊下に組み伏せられている遅刻の原因。最早、犯罪者でしかない存在。その脇を通りすぎようとした時だった。
「大体、その背に有する純白の翼は何だっ。お前は堕天使に属する悪魔なのかっ!? 悪魔だったら悪魔らしく漆黒にしたらどうなのだっ。蝙蝠のような飛膜で出来た禍々しいものにすべきだろうっ。大天使のつもりかっ」
自称魔術師という男の言葉に、鷹一は思わず立ち止まり紳士へと視線を落とし見据えた。そしてしばしの沈黙の後。
「……だとしたら。何の用がある、人間よ」
低い声で厳かに。そう言ってみたのだった。
ブラインドが開け放たれている窓からは、穏やかで暖かな陽差しが降り注いでいた。その下には重厚な木製のデスクが置かれている。無駄なものは一切置かれては無い。塵一つも見当たらない。そこにあるものは、持ち主が必要としているデスクトップパソコンと、白い羽ペンを模した装飾用のボールペンが筆さしに収まり立っているだけだった。
鷹一は腕組みをし、体を窓へ向けて机の前に立っていた。ただ視線は羽ペンに向けられジッと見つめたまま黙っていた。
ちなみに予定していた面会は午後へと延期とした。先方は「ええーっ」と悲鳴のような驚きの声を上げていた。しかしこちらも緊急を要すると判断をしたのは鷹一自身であり、先方との約束も、元を辿れば唐突に頼まれた上に気が進まないものだったので、後回しにした。
大体。目の前で繰り広げられている事も、事と次第によっては、もしかして重大と言えば重大な事柄なのかも知れなかった。まずはそれを確かめる必要があった。
鷹一の背後には、応接用のガラス製のローテーブルと、三人は優に座れるソファ二脚が向かい合っていた。今朝、妹とやり取りをしたそこには、現在、従弟と妹が並んで座り、テーブルを挟んだもう一方には中年紳士が座っていた。
「――で。何が目的なんだ、人間よ。再三私を追い回し、剰え、こんな所まで押しかけてくるとは」
鷹一は窓の方を向いたまま、振り返えることなく、抑揚の無い声で言った。
「貴方は自分を魔術師だと主張し、その上、私の背に翼を見たと言ったが。これは通常、人間などには見えぬもの。それを見たというのなら、貴方は、ある種の特別な能力を持っている者だと考えられる。どうなのだろう」
そして一層、演技掛かった静かな声で続けた。
「だから何度も言っているだろう。ワタシは魔術師だ。お前からは途方も無い、このワタシでも計りかねる、大きな力を感じるのだ」
それが功を奏したのか、中年紳士も今までとは打って変り、落ち着きある口調で答えた。
「お前の有する力は、ワタシの持つ〝魔力〟と質が違う。しかし別格で強大だ。そのような人間は今まで会ったことが無い。人が持つ力、ではなく、むしろ〝強大な力そのもので出来ている生命体〟にワタシは見える。よって人ではない力を持つ稀有な存在。魔術界では古来よりそれを魔の者と呼び、異界の存在と考えている。悪魔。魔族。そのように称す。他世界種という認識なのだ」
「なるほど。根拠は、私から人間では持て余すほどの力を感じたから。と、言うことか」
「他にもその背についている翼だ。ワタシには見えた。光り輝くような白い翼が」
白い翼、か。鷹一はテーブルの羽ペンを見つめながら小さなため息を吐いた。
「我々人類は、そんな物をもって生まれてこない」
「そうだ。この地上の人間は翼を必要としない種。地べたを駆けずり回っているのが適当なのだ。そう神が定めた」
鷹一は見つめていた机の上に乗っている羽ペンを手に取った。
「人の子よ。それに不自由があるとでも?」
彼は、手に取ったペンに付いている羽を、もう一方の手で軽く撫でた。
「人の子よ。生命とは、各々にとって必要なものが、必要なだけ備わっている。それが世の法則。ゆえに、人間が翼を持たぬ理由は、神の与え給うた人間へ対する尊い恩恵なのだ」
手にしていた羽ペンを元の場所へ戻し、鷹一はゆっくりと振り返る。
「――とか何とか言えば、ご納得されるか? 不法侵入者の方」
彼はデスクに寄り掛かり、紳士の方を見据えた。
「魔力がどうの、魔族がどうの、魔術がどうの、と貴方は本当に本気のようだが。さっきから何度となく言っているが。ここはアーティストを八組所属させ、健全で円滑な音楽活動が出来るようにマネイジメントをしている音楽事務所なのだ。表の看板にもオフィス・Sと書いてあるだろう。スタジオ名もプレートにあったはずだ。にも拘わらず。ズカズカズカと勝手に上り込んできて、社長の私に難癖をつけるとは言語道断。私は西園寺鷹一と言う。このオフィス・S社長であり、西園寺財団という巨額な金を運用している者でもある。これ以上、私に付きまとうのであれば、弁護士を立てる。廣瀬市の迷惑行為防止条例に基づき、半径五メートル以内の接近禁止命令を出してもらう」
それから彼は「これを見ると良い」と、右腕を高らかに掲げ手首を露わにした。そこには透き通った紫色の丸い石が連なったブレスレットが、嵌められていた。
「この石は商売繁盛、無病息災、そして魔除けになる、と云われている紫水晶。俗に言うパワーストーンだ。貴方が強大な力うんぬんと感じたのはこれのことではないのか? それはそうだ。この紫水晶は、オーストラリアで採掘された極めて純度の高い最良質なもの。時価総額が二百万円はする。現地でも滅多に出土しない濃い紫色をしている。紫水晶は、色が濃ければ濃いほどに、強い力で魔除けの威力を発揮するというらしい。しかし。貴方の出現により、よく分かった。全くもってこの水晶は厄除けにも魔除けにもならない。むしろ厄が降って掛かってきた。最悪な事態だ。もうそれどころか、貴方のような者に付きまとわれれば、商売にも支障が出る可能性すらある。繁盛どころの話では無いっ」
鷹一は手首に付けていた紫の腕輪を外すと。
「貴方にはこれを差し上げよう。だからもう私の前から姿を消して頂きたい。二度と来ないでほしい」
そう言って中年紳士の前へ腕輪を置いた。
「今回は警察には通報しないが。今後、同様な事を起こしたら、次こそ廣瀬警察に通報する。そして、そこの男の知り合い刑事に逮捕してもらう。もしくは、財団の威信をかけ、貴方が二度と娑婆の空気を吸えないよう手を尽くす」
鷹一は無表情のままソファに座っている紳士を見おろした。
男はただ黙って、テーブルに置かれた目の前の紫水晶をじっと見つめている。それから右手を出すと、水晶にそっと触れた。すると体をぶるるっと震わせる。
「こ、これは……」
「採掘現場まで行き、わざわざ交渉し、手に入れた逸品。鉱夫によると、この水晶が取れる場所は、地元で崇めている神が住まう〝霊山〟という話だ。その為〝神の力の宿る石が生まれる場所〟と云われているそうだ」
「確かに大きな力を感じる」
「そうだろう。それを身に着けていると、着けた人間にも不思議な力が宿る、と現地ガイドが教えてくれた。だが。お陰で私は災難に見舞われた。疫病神にでも憑りつかれているようだ」
紳士は水晶をまじまじと見て、触って、それからおもむろに自分の右腕に着けてみる。すると、またもや体をぶるるっとさせた。
「こ、この力は」
「ご納得されたか、魔術師の人」
「何と強大な力。素晴らしい……」
感嘆の声を上げる不法侵入者を脇目に、鷹一は部屋のドアへと移動し、扉を開け放った。
「さあ。分かって頂けたのなら、お引き取りを。水晶の代金は支払わなくて結構。こちらは部外者に速やかな退去を望んでいる」
あくまで冷ややかに言った。しかし代金は要らぬ、という時点で、もう充分過ぎるくらい鷹一の気持ちは籠っていた。
「だがワタシは使い魔を」
「良いから。もう二度と来ないでいただきたい。そして、街で私を見かけても近づかない。話しかけもしない。絶対に。もう二度と」
「だが。お前の背に見えた翼に関しては」
「それは、談話ロビーの仕切りガラスの壁と、廊下の窓ガラスが光の屈折を起こし、私の背中が光って見えただけだろう」
「しかしワタシには白く」
「単なる老化によって目が白濁した症状、白内障ではないのだろうか。眼科の受診をお勧めする」
「は、白内障だと……」
「もしくは飛蚊症だ。兎に角。ならばその水晶を売って医療費にでもしなさい。あとはマジックの大道具代にもなるはずだ」
「しかし」
「貴方はしつこい。しかしもお菓子も無い。とっとと帰りなさい」
「だが話は」
「終わった。これ以上こじらせるのであれば、その水晶を私から無理矢理に脅し取った強盗だ、と警察へ通報する。そうすれば貴方は現行犯で逮捕だ」
「なんだと」
「いいから。帰りなさい」
「ワタシは使い魔が必要なのだ」
「だったらハローワークへ行き、正規の手続きを踏んで人を雇うんだ。あとはウェブで求人でも出しなさい」
なかなか腰を上げない紳士に対し、鷹一は反対側に座っている従弟へ「お客様のお帰りだ。外まで見送ってもらえないか」と依頼をする。
こうして。
「ワタシは見たんだっ。白い翼をっ。悪魔めっ。正体を現わせっ」
「ったく。おーじょー際が悪いなぁ、アンタも。いい加減にしないと、本当に警察呼んじゃうぜ~」
「放せっ。無礼な若造っ」
「俺も若くないッスよ。それに若造じゃなくて俺は藤島辰夫、三十九歳。この廣瀬市でまっとうな興信所をやってる、現在、嫁さん絶賛募集中の男です」
「聞いてないっ」
「まあまあ。あんまり怒ると顔が皺だらけになっちゃいますよ。アンタも若くなさそうだからさ」
散々文句を並べ、やっとの事で不法侵入者は出ていった。
「ちょっと兄さん。あんな高価なものをタダであげてしまっていいの?」
「問題無い。時は金なりというだろう。私にとっての一分は、あのような鉱物と比べものにならないほどに尊い。そんな私の予定をあの人間は一つ飛ばさせた。まったくもって遺憾だ」
「そっ。ご愁傷様なこと」
結局。午前中に予定は流れてしまった。鷹一は深いため息を吐き、さっきまで紳士の座っていた客人用のソファに腰を落とした。