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《第三話 天際の天秤》(3)‐3
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想定していた通り。天川緑地公園の酷暑の炎天下には、スポーツを楽しむ子供も大人も、無理に散歩に出てくる老人たちの姿も無かった。
カルスはその一角にある、野球場とサッカー場として使える芝生の生えた運動場へと出た。青々とした芝生はふかふかしていて、むしろ手入れがなされていない状態ともいえる。植物の生長が早いのか、それとも使う予定がこの先ほとんどないのか。放置されているように見えた。
「しかし山の緑が濃く、壮観と言えますねぇ」
などとグラウンドからの景色にしばし目を見張り眺めてしまう。最近の騒々しさに、自然とそんな慰めを求めてしまうようだった。
「とはいえ、早くしないと君もばててしまいますよね?」
カルスは「ついて来てください」と、グラウンドの中央へ向かって歩き出した。
「魔道士殿、何を使うのです?」
「呪解の魔法です。しかしどう解くかが問題ですね」
後ろを付いてくる天使の疑問に、カルス自身も方法を悩んでいた。
「雅沢君。君の呪いは私の神力を込めた魔法で解けるものです。おそらく難しくはありません。しかし……です」
彼は振り返ることなく、まるで独り言のようにしゃべった。
「どこまでを解いて欲しいか。その『程度』によって、難しくも、または、簡単に済ませられるものにもなります」
「どういうことですか。程度、とは?」
フェレットの代わりに天使がすかさず反応する。一方、当の小動物は何も答えない。
「それはですね。きっとご本人は、迷い、又は、考えがあるからこそ、即答が出来ないのでしょう。いいですか、天使さん。この邪神による呪いは、大地の一族に掛かった呪いと結びつきが強い訳です。しかし大地の一族、すなわち大地の神の恩恵自体を強く受けている一族、とも言えるのです。ですから、邪神の力に対抗しうる力も強い。そんな彼に、私が呪解魔法を使えば呪いを完治できる、ということです。つまり現世も、そして今後、天上界へ戻った時の来世と呼ぶべき本来の天上人に戻った時も。最早フェレットにならない正常な姿となるのです」
「はあ。それなら、それが一番ではありませんか?」
「勿論、ご本人もそれが一番良い、と分かっている。ですよね? 雅沢君」
すると、天使の肩にぶら下がっていたフェレットは「はい……」と、小さく返事をした。けれどそれ以上は何も言わず、黙ってしまう。
さらに少し歩いて、グラウンドの中央辺りに着いた。魔道士と天使はそこで歩みを止める。そこでフェレットはやっとしゃべり始めた。
「でも。そうなると、今後。オレ、雅沢勇聖、という人間は、今後、魔法が使えなくなる。ということなんですよね?」
「はい。その通りです。やはり君はそこを気にしていたのですね?」
カルスの言葉に、また少し沈黙してから「……はい」と、勇聖くんは小さく返事をした。
「オレの現世は『完全な人間として過ごせ』という誓約上に成り立っている生命です。でも現状、どうしてもそれを覆す出来事が日常的に多く、魔法がどうしても必要な時があります。だから緊急措置として、前世の姿、前世の能力だ、という体で〝今の、人間・雅沢勇聖がやっている訳ではありません〟という形、フェレットの姿になることで、魔法を使うことを許可されているんです。だから、ここで呪いを完全に解かれてしまうと……」
「君の『前世である』という記号も無くなってしまう」
「はい。オレは今後を、死ぬまで魔法は使ってはならない、ただの人間で過ごさなくてはいけなくなる」
そう言って、彼はまた黙ってしまう。
「たしかにその点も問題です。ただし、もう一つ問題もあるんです。雅沢勇聖くんを終えて、来世というべき、再び前世のレイモンド・カルサイトに戻った時が同じでない。これも大問題なんですよ」
「そうです。オレの転生って、別枠なんです。これは次期天界執行役最高責任者になる者へ与えられた、言わば〝研修〟なんです。『完全な人間として一生を全うする』こと。天界執行役最高責任者になる者は、これを経験しないといけないんです。そしてだから雅沢勇聖を挟んで、前と後ろの因果律が同じでないと捻れが生じてしまう。つまり、呪われていた前世は、来世に戻った時にも呪いが同じように掛かっていないといけない」
二人のそのようなやり取りを静かに聞いていたランベルセは、問題、大問題と魔道士が言っていることが理解できた。たしかにこの呪いを解くのは一筋縄ではゆかない。ささっと大地の神の力で解除する訳でもなく、また、解かない訳にもいかない。つまり、人の姿には戻し、しかし呪いを完全に解かず、前世から引き継いでいる分の呪いはそのまま残さなければならない。そんなこと……できるのだろうか、と。
「もし、この研修を失敗してしまうと、最高執行役としての資格を失ってしまいます。勿論、今のオレ、雅沢勇聖が終わって、天上に戻ってから呪いを完全に解いてもらうことは問題にはなりません」
「そうですね。来世になってしまえば、そこから先の因果は、原因と結果の法則のみで前進すればよいのですからね」
「はい」
返事をした小動物は、同時に「はぁ」とため息を吐く。そして、
「こんなことなら、十五年前にアナタからの申し出を素直に受けておけば良かったですよね」
と、つぶやいた。
十五年前。それはまだ天界で執行役をやっていたレイモンドの時の話であろう。二人の間では、そんなやり取りがあったのか。ランベルセは知らなかった。しかし二人が幾度となく会話や、共に戦いに赴いていた場面、むしろ、この二人とはランベルセも共闘したことはあった。だからその中で、カルスとレイモンドが呪いについて話をしたことがあっても、不思議ではなかった。
「まあ、たしかに前世のレイモンドさんであった頃。私は『フェレット呪姿を解除しますか』と、問いました。しかしその時は呪いを有したままであっても、それほど不便はなく、むしろ意外と役立つこともありましたからねぇ」
と、カルスは小動物を見て、ふふっと微笑みかける。その笑みをランベルセも理解はできた。そう。フェレットになってちょっと不便、ちょっとからかわれる、くらいで済んでいた。いや。むしろ「可愛い」「癒し」と、大変な〝人気者〟になってしまっていた。レイモンドという男は、人の姿の時が堅物すぎるので、そのギャップのせいで、部下から大ウケ、好かれていた。そんな天上界での時分に、のちの時間経過でこうなることなど、さすがに本人も予見できなかっただろう。
「と、いうことは。前世と来世、つまり同一人物の因果律が破綻しないように呪いを解く。そういうことなのですね?」
ランベルセは自分の肩に乗っている勇聖くんを見て、それからカルスの方へ顔を向けた。
「ご明察ですよ、天使さん」
「それは……難しいことなのでは?」
「それもご明察ですよ、天使さん」
呪いの完全打破をする、のではない。むしろ、それをやる〝だけ〟なら、大地の神力を思いきりブチ当て、呪いを完全解除してしまえば済む話。しかしそれではダメなのだ。雅沢勇聖くんという「現世」を「等号」として、レイモンド・カルサイトという天上人の前世と来世が同じ状態にしなければならない。
しかし、それは過去にタイムトリップでもして前世のレイモンドの呪いを解くか。または、前世と同じ状態、同じ分だけの呪われたままの「雅沢勇聖くんの人の姿に戻すだけ」以外は呪いを解かない。という、前者は物理的に不可能であり、後者もそんな難しい解除法を強いられる。と、いうか、部分だけ解く、などという方法はそもそもあるのだろうか? しかし全解除をしてしまうと、前世と来世が同一人物で無くなるということになり、因果が崩れ、最悪、レイモンドへ戻れなくなる。
これは天界にとっても重大事故。勿論、本人にとっては目も当てられない結果とも言える。人間界へ研修に出かけ、帰らぬ人になってしまった、ということである。一方で天上界は、次期天界執行役最高責任者という尊い存在を失うことになる。そんなことを天界最高責任者たる天界王が許す訳もない。あの、ふざけたヤローではあるが、世界の運営と職務遂行に対して主人は、冷静で冷淡に成果を必ず求める。あらゆる生命の安穏のために。だからこそ憎き邪神の力すらも利用して、前世・フェレットなら魔法を使っても目を瞑る、などというややこしい事を許可しているのだ。天界の主は、恐ろしいほどに手段を選んでやっている。
天使は黙ってしまった。加減を計算し、姿だけは人間の雅沢勇聖へ戻せ、という選択しかない。しかしそんなことなどできるのだろうか。むしろ、青ダヌキの不思議な道具でも拝借して、過去に連れて行ってもらう方が現実的。と、思えるほどに難しい状況といえる。
「ふふっ。いいですか、天使さん。ですから、貴方に、同行をして頂いたんですよ」
呪いの解き方も見当がつかぬところへ魔道士からそう言われた。それどころか、なぜか笑われてしまった。それに対し見当がつかないランベルセは、思わず思考停止してしまう。
「ど……。どういうことでしょうか、大地の神」
「つまりですね。貴方の所有している〝剣〟が役に立つのです」
「私の? 英雄の剣がですか……?」
偉大な魔道士にまるでからかわれるような表情で言われ、さすがに天使ももっとよく考えねばと自分の剣について思いを巡らせた。
英雄の剣。これは天界最高責任者補佐官の証であり、最高神の創造を司る神・英雄者の力から成り立っている神器。だから最悪神に対しては絶大な威力を発揮する。六源神の大地の神の力同様に、このフェレットに対し浄化術を、剣を通して掛ければ邪神の呪いは解除できる。全ての呪い。呪姿ですら。しかしそれでは前世と来世の因果が崩壊。この手段ではダメである、と先ほどから考えあぐねている話なのでは……?
「まだお分かりじゃないようですね。その剣は、剣であって剣ではない。面白い代物ではありませんか?」
「剣であって、剣では……」
英雄の剣。たしかにこれは、英雄の〝剣〟である。だが神器。創造を司る最高神の力が具現化した物。それが剣の形になっているだけという代物。
「なるほど。これは〝天際の天秤〟。そうおっしゃりたいのですね」
「そうです」
と、にっこり笑顔を向けられた天上界のナンバー2である彼はようやく合点がいった。と、その理解ができたのと同時に愛刀を喚び出した。刃が黄金色をし、柄も金の細かくそれでいて豪奢な装飾の施された立派な長剣。ニンゲン界の陽の光を受けて、輝きがいつも以上に強く、持ち主でさえ眩しく思えた。
魔道士は剣を見て「分かっていただきありがとうございます」と、ニコリと笑顔をランベルセに向ける。
「しかし、天使さん。ここですぐに本来の形へ戻されても困ります。まず解くべき呪いの為だけの術の準備をしてからです」
「わかりました」
「と、いっても。すぐに出来ますが」
偉大な魔道士カルスは、手に持っていた三色団子と同色の杖を天へとかざし「大いなる大地の恵み。我らにしばし、その雄々しきゆるぎない心で守護の力を齎したまえ」と、祈りのように言葉を述べる。すると三色の宝玉から黄金色の光がカッと放たれた。カルスは、杖の先端に宿った強い光を保ったまま、それを足元へと力強く突き立てた。そして更に誓約の言葉を述べる。
「本来あるべき世界の均衡、生命の均衡を齎す大いなる力を我らに示せ。均衡は浄化であり、浄化は均衡を保つための世界安定の法。今こそ、その真価を弱き小さな生命へ救いの力となりたまえ」
カルスは両手で強く握ったままの杖に、自分の中にある大地の神力を余すことなく解放した。彼自身も黄金色の光に包まれ、それが杖を伝わり地面へと注がれていく。そんな彼を中心に、黄金色に光り輝く線や文字が次々と描かれていく。そしてあっという間に、グラウンドの半面にカルスを中心とした円陣が完成した。
「さて。ここからが、貴方の出番です。天使さん。その剣を〝天秤〟に」
「はい。……しかし魔道士殿。アナタは大丈夫ですか? 天際の天秤を用いた術を使うと大きな負担に」
「ええ。ですから。なるべくお急ぎください。私の奥さんが言うところの『時間はお金と一緒。ちょー大事』です」
大きな力を一気に放出したため、偉大な魔道士も笑顔が少し歪んでいた。
だがランベルセ自身、自分がこれからやらねばならぬような〝大役〟が待ち構えているなら、事前に教えておいて欲しいと心の片隅がざわついた。しかもこの事態は「おっ兄たまも、ただお泊りうんぬん」と言っていたあの身内。たしか「君の持つ英雄の剣も、〝伊達〟じゃないよね」とぬかしていた。はあ。あの人は分かっていたからこそ「行ってこい」と、意地の悪い笑顔で送り出したのだろう。
「まったく。本当に嫌な〝弟〟を持ったものだ」
ランベルセはカルスから二メートルほど離れた。
「……では。僭越ながら」
一旦しゃがむと、小動物になっている勇聖くんを地面の上に降りるよう言った。彼は素直に応じ軽やかにストン、と着地する。そしてランベルセの足元に後ろ脚だけで立った。
「君が恐れることは特にない。ただし強い光に注意だ。なんなら前もって目を閉じておくといいかも知れない。そして合図をしたら目を開けばいい。その時には、もう人の姿になっているだろう」
「わかりました」
フェレットの表情はよく読み取れない。ただ声色は少し硬い。緊張なのか、それとも本当に元の状態へ戻れるかという不安があるのか。中身はまだ子供である。そういったことを思っているのも当然あるだろう。
「どうした? 心配は無用だ。君の母である人の力を使って術が使われるのだから、恐れることは」
「いえ。あの。その、フェレットになった時。オレ、服が……」
「ん? 服?」
フェレットは通常、衣類を身に付けて棲息はしていない。昨今、ペットとして飼われている個体に不要な布を巻き付けている人間を見かけることもあるにはある。しかし現状の彼に、そんなことはされていない。何が言いたいのだろう。
「あの。戻ったら、そのまま、オレ、何も服を着てない恰好になるってことですよね?」
「ん……あ」
彼の言う通り、フェレットから解除され人の姿へ戻ったら。何も身につけていない状態になる。それは呪姿を持つ者しか気づかない盲点だった。
「わかった。元に戻った時には、衣服も身に付けた状態にする」
ランベルセは彼の願いに応えることを約束し「では始める」と、声を掛けた。小動物である勇聖くんもこくりと頷くと、小さな目をつむり前足で両目を覆った。
「それでは」
天使は、喚び出していた黄金に輝く刃の長剣、その柄を両手でぎゅっと握った。そして声高に宣言する。
「あらゆる空間、時間の均衡を保つものよ。あらゆる全てに平等なる祝福を齎す偉大なる存在よ。今ここにその真価を示せっ」
切っ先を天へと向け、ランベルセは神力を剣へ放出した。白と黄金の混在した輝きが自身から放たれると、手にしている剣へとどんどんと注がれていく。黄金の剣は、その与えられた神力によって、呼応するように青白く輝き始めた。光はランベルセが力を注げば注ぐほど、輝きの強さを増していった。
そして、強い神力の青白い柱が天の果てまで伸び、まるで大空の支柱に見えるほどの太さにもなった時。
「……出でよっ。天際の天秤っ」
彼自身の裁量で、感覚で、英雄の剣が真の力を発揮できることを察知した。両手で握っていた剣が、自ら発している青白い光の中へ溶け込むように同化していった。そして剣としての物質的な形を全て失うと、ランベルセは両腕を真上にのばし、両手を広げ自分の神力をさらに空の彼方へ放った。彼自身が、最早、大地に建つ、白い支柱そのもののようになった。
周囲も一変する。空間も、じり、びりっと、震えた。真夏の風景、グラウンドも熱すぎる陽射しも、すべて消えてしまう。カルスの引いた結界内は、まるで冬の雲に覆われたような、白く灰色がかった空間へと変化した。
「……初めて。……本物の天秤を拝見しましたよ」
ランベルセから少し離れたところのカルスは、顔を上げ、いつになく険しい表情を浮かべていた。
カルスの視線の先には、輪郭だけが群青色と灰色が混在した透明の巨大な秤が、中空にそびえ立っているように見えた。天秤はランベルセの神力の柱の上に、巨大な天秤の土台、そしてそれに見合った秤の支柱がのびていた。その支柱の先端の左右には、通常の秤であるならば皿が一つずつ下がっているが、この巨大な天秤の左右には、透明な鎖によって球体を半分にした透明の器が上から一つ、二つ、六つ、二十四……と、五層に連なっている。しかも一番上の一つ目が一番大きく、下の数が多くなるにつれて小さくなっていく。
「一番下は百二十個ほどの秤皿とすれば……片方で百五十三。両方で三百六もの器で出来ているのですね?」
「はい。しかし実際は途方も無い数が連なっています」
両手から神力を放出したまま返答をするランベルセもまた表情は硬かった。彼も決して容易に天秤を出現させているわけではなかった。
「私も剣を有する者ではありますが。……数える事はおろか、むしろ数えたいとも思えない器の数です。現状、ここで現れた天秤も、今回の呪いを解くに……必要な数なのです。天秤自身が演算し、必要な状態で現れたものなのです」
「なるほど。本物、ではあるが、〝本性〟ではない。そういうことなのですね」
誰も本来の正確な大きさなどは分からないのだろう。おそらく変幻自在の大きさになる神器。
今、目の前に現れた天秤の柱は、朝倉家の自宅から数十メートルほど離れた三本の送電線が走る鉄塔くらいの高さがあるように見えた。その左右に多くの秤器が連なっているのだから幅もかなりある。
「これだけの規模ですから。やはり始めに干渉回避の結界を張っておいて正解でした……」
カルスが作った結界内は一種の圧縮空間になっている。「大いなる大地の恵み。我らにしばし、その雄々しきゆるぎない心で守護の力を齎したまえ」と、先に使った術は、外界からの目くらましだけではなく、邪神に対する浄化の神力で満たされている。万一、奴から邪魔や攻撃をされた場合の予防線として張った結界でもあった。
「では、早速、始めます。今の天秤は、雅沢君の前世と来世を表しているのです。柱は現世であり、前世と来世、は同じ、という均衡が保たれている状態を示しています」
人生が百五十三個の器で表わされている。それが如何なる意味であるかは、正直、カルスも考えが及ばない。それが勇聖くんの前世と来世である、とそう記号として理解するしかない。
「それでは秤の均衡が勇聖くんの前世と来世の因果を保護し、今回掛けられてしまった『呪姿の常態化』のみを、私の大地の神の力で解いていきます」
カルス自身は残しておいた解呪術を発動できる神力や魔力を放出し始める。ただ、心配なのは体力の方だった。まだ死にはしないだろうが、体の方はあまり長くもたない。それは感じていた。同時にいくつもの術を使うことは、大魔道士であっても、また、大地の神であっても、一つひとつの術の負荷が大きすぎるため、はげしく体力を消耗させていた。
それでも彼は、結界を作動させたまま、一度、魔法の杖を大地から抜いた。そして少し離れた場所のフェレットの方を見た。
「では、いきます。……雅沢君。痛みや苦しさなどは無いでしょうが、体に違和感や疲れ、脱力感が一気に襲うかも知れません。そこは念頭に入れておいてくださいね」
まるで薬のご利用方法を伝える医者のように言う。小さい動物は「わかりました」と返事をした。
「それでは……」
カルスは改めて自分の杖をぐぐっと握り直した。
「……我が清浄なる大地の力。悪しきものより受けし邪気を浄き力で打ち砕きたまえ……。森閑なる大地を支えし、か弱き生命に大いなる祝福を……」
神術を発動させるための魔力で、自分の中にある大地の力が引き出され神力が徐々に放出され始める。自分の意志と魔力に呼応し、大地の神力が黄金の光となり杖へ注がれ、まばゆい光を発した。
「幽隠なる底より深くに潜みし暗闇。歪められし刻。その悪しき標に我が光明をもって」
力の絶頂が杖にすべて注がれた。それを彼は両手で掲げると。
「――正道を導き与えたまえっ」
強い黄金の光が、まるで山から深い谷へと一気に落ちる激流の如くに巨大な天秤へ注がれた。光は秤に到達すると一瞬カッと金色に閃く。そして黄金の光を受け入れ、大地の神力が注がれるほどに天秤もまた黄金色に輝いていく。
「す、凄まじい力だ……」
秤の安定を自分の神力で引き受けているランベルセは、その頂きに何かが浮かんでいることに気づく。天秤に一度注がれた大地の力が、そこから更に上昇し、秤の真上に黄金の光球を成していた。
「しかし、なんと穏やかな光」
天秤を通じ齎される強力な大地の力が作り上げた黄金色の球体。やがてそれは白く優しく輝き出した。そしてその輝きが、細かな砂の粒のようになって小動物へと降り注いでゆく。細かな雪が降るようだった。
「確かにこの力は痛みなど感じる術とは思えな……」
ランベルセもその柔らかな輝きを見て、心が安穏さを覚えた――瞬間。
ドドドドッと、突然、空間が揺れた。
「な、なんだっ」
ガガッと轟音も響く。頭上の高い所でこの空間自体に強大な力で何かがぶつかってきている。その振動で結界内が大きく揺れたのだった。
「やはり……。仕掛けてきましたね」
カルスも巨大な秤の天辺を見上げた。視線の先、結界の最上部にまるでガラスに付けられた蜘蛛の巣状のヒビが走っている。しかもその線は禍々しく黒い。そこから、全身が嫌悪する力までをも感じてきた。重々しく邪悪なじっとりとした力。
しかし彼は術を止めることはしなかった。死力の解除術。それで小さな生命を救うことが彼にとっての優先すべきことだったから。
『……いいぞ。六源。こんなものを出してくるとは。我れとしては……戯事もより愉快な時間となろう』
だが結界の上部が、バリンッと妙に乾いた破砕音と共に、粉々に砕け散った。その透明な欠片が地面へと降り注ぐ。
結界の裂けた場所には穴が開き、それを背景に人影が宙に浮かんでいた。その人物からは、先ほど感じた重々しく邪悪でじっとりした力がより強く感じられる。
「第一番目の引き金」
未だ呪いを解く術を使い続けるカルスのかたわらで、ランベルセは邪悪な存在が浮かぶ空中を見上げた。
奴はいつも通りの姿でいた。穏やかな微笑み。柔らかな日差しのようで、まるで世界が幸福に満たされた姿を一番喜びえた尊き存在の慈悲深い表情だった。
しかし。その瞳の奥には、黒々と邪悪を湛えた光。氷の刃のような鋭さが閃いている。その眼光は生命の中にある「負の感情」をすべて抉り晒し出させる力があった。蒼い眼。蒼ざめた夜の眼。白々しい月の閃き。
しなやかな赤い長い髪を有し、黒味がかった群青色の裾、袖のゆるやかな衣を身に着け、風貌はまるで賢人であった。
第一番目の引き金とはそんな――福音の使者というべき――存在だった。
「くっ。今出てこられても」
ランベルセは目の前の巨大な天秤を見上げ、顔をより一層険しくした。天際の天秤として荘厳にそびえ立っているときに、愛刀・英雄の剣。呪いを解くために出した神具を剣に戻すことはそれを中断することになる。今までやった大地の神の力が、全て無駄になってしまうことになる。
しかし、その判断は。
「困りましたね。しかし」
これはいよいよ、まずもって、本当に困ったことになった。あと少し解除術を使い続けられれば、戻せていたかもしれない。しかし未だ勇聖くんは小動物の姿のままだった。しかし、呪いを解く、よりも先にか弱き生命を守る。こちらが最優先事項になってしまう。第一番目の引き金の出現とは、その一点に尽きる。フェレットになっている少年は、事態の急変に動くことも出来ず、その場で固まっていた。
「申し訳ありません。想定していない訳では無かったのですが」
カルスはサッとフェレットを右腕に抱え込んだ。なにより害悪からあらゆる生命を守ることが最優先だった。
「こうなってしまったら……解除は少し延期をさせていただきます。すみません」
彼は魔法の杖を天秤へと向けた。
「我が祝福よ。その恩恵を以って、真なる邪悪を撃ち滅ぼし賜えっ」
黄金に輝いていた天秤が、その言葉の直後にカッと更に大きく輝いた。みるみる神聖な力も高まっていく。
「よくもまあそんな暢気なことを言っていますねぇ、第一番目の引き金」
カルスはふぅと、小さくため息を吐いた。それからにっこり微笑む。
「貴方の目の前にある物は、確かに面白い物かもしれません。しかし同時にそれは貴方にとって大変危険な道具であることをまさかお忘れではありませんよね?」
彼は大きく息を吸い込んだ。
「聖光白大地破弾っ」
滅多に大きな声など上げないが、今はありったけの大声で叫んだ。それは合図。自分の持っている杖に全魔力を注ぎ、三色の宝玉がそれを安定させ、更に大地の力を増幅させた。もともと三色の白、桃色、緑は大地の恵みを象徴し、神力の結晶でもあった。その三つの宝玉を彼の神力は通過し、計り知れないほどの巨大な大地の神力が、塊となって天秤へ注がれた。
「なんと強力な術……」
地上から見上げているランベルセはその神聖すぎる黄金の光で、思わず両腕で顔を覆った。危険な光ではない。しかしあまりにも強すぎた。
『カルス。お前は〝これでいい〟と思ってやったのか?』
第一番目の引き金は強い光に目を凝らして言った。
『ここまでの甚大な力を、ただの陽動に使う。そこまで考えていたとでも……?』
彼は返事をしなかった。
代わりに。
「――前ばかり見ていると、後方が隙だらけだねっ!」
「ふっふっふっ。――だ~から、莫迦なんだよねぇ~~。お前って」
第一番目の引き金の後方から、ここにいる全員が聞いたことがあり過ぎる人物たちの声がした。当然、邪悪な者も振り返った。
『レゼッタ・ガレジィートェッ。ルートヴィッヒ・ランベルセッ』
二人の名を奴は叫んだ。しかし振り返ったため、背後にしてしまった方から巨大な大地の神力が、害悪を飲み込んだ。
「僕ら妖魔はね、大地の恵みにとても感謝して生きているから。この神聖な黄金の光を浴びたら、お前と違って凄く元気になれるんだっ」
「そ~れにしてもさ、莫迦な奴の後ろから〝ただ声を掛けるだけで良い〟って言う仕事。ホント、ラク過ぎだね~。それだけで邪神を退けられるなら、私はいくらでもお前のことを罵ってやるよ~。第一番目の引き金の頓馬。大莫迦邪神のボンクラ悪神んんん~~っ」
上空に現れたのは、紫色の髪に黒衣と漆黒の大剣を携えた最強の妖魔と謳われるレゼッタ王兄殿下。その隣には、金髪碧眼で若々しくなって紫のローブを召し、黄金の薔薇の花飾りが先端に輝く魔法の杖を手にしたルートヴィッヒ元天界大公爵閣下。レゼッタさんはリドールを見て「悪神は本当に悪い事しか出来ないね」と憂いた顔をし、一方のルートヴィッヒ様はニヤリと笑ってから「あ~あ。こう毎日、莫迦と顔を合わせると、私も莫迦にならないか心配だよ~」などと言い、やれやれ~と、ため息を吐いた。
『くっ……おのれ、天上の端卒めが』
「んんん? 僕は妖魔だから妖魔界の者だよっ」
「は? 今、お前、私のことを下っ端って言ったってワケ? あのさ。もっとよく見てから物を言いなよね。この姿を見て、私のどこが雑魚だって思えるワケ?」
そうこうしている間に、カルスの放った神力が第一番目の引き金を完全に呑みこんでいた。
「あっはは~。トロトロして、のろのろ余裕そうにしてるから、そ~なるんだよ~」
「うーん。医院長は端卒ではなくて、とても格の高い神術使いだよっ」
一方で、同じく大地の神の聖なる黄金の光に包まれたルートヴィッヒ様とレゼッタさんは何ともない。それどころか医院長は、神聖な光に呑み込まれた邪悪を見てますます面白そうに笑い、黒衣の貴公子は清々しい微笑みを浮かべていた。共に大地の神力を得て、元気がみなぎっているようだった。
『くっ。良いわ……。ルートヴィッヒ・ランベルセ。レゼッタ・ガレジィートェよ。余興は、大いに時間を掛け、盛大に。さすれば劫の退屈の癒しとなる』
全身に黄金の光を被った第一番目の引き金は、その中へ溶けて消えていく。
「減らず口だね~、お前ってヤツは。まったくさ、往生際が悪いよね~莫迦って。少しはこっちが被るメンドー、身を以って味わってほしいんだけど」
そんな消えかかった邪悪に対し、天上界一の神術使いは「あ、じゃあ、餞別。輝光爆裂破っ」と、笑顔で大神術をぶっ放した。彼の掲げた黄金の杖から、光の神の力が籠った金色に輝く大きな光が、消えいく黒い影にわざわざ襲い掛かった。が、ちょうどその黒い影は消えてなくなった瞬間であった。よって。その強大な黄金弾は。
「んんんっ!! すごいね、医院長っ。天秤に大当たりだよっ」
「あ、ごっめ~ん」
そのまま巨大な天秤の土台と柱の継ぎ目辺りに、春人さんの言う通り大当たり。命中した。
「のっわぁぁ~~~~~~っんてこーーとーーを~~~っ」
その結果。天秤は根元で、ボキッと折れ、がらんごろんっごろんがらんっ、とけたたましい大音量の鐘のような音を響かせ、地面へと倒れていった。
「て、てててててっ天際の天秤がぁーーーーっ」
その持ち主である天使は絶叫。
「な…………なんと…………」
一部始終を見聞きしていたカルスは「なんと」のあとに「恐ろしいことを平気でやってしまうのでしょう」と、言葉を続けたかった。しかしそれよりも、彼は抱えていたフェレットと共に、飛翔魔法を使って中空へと避難をした。
地面の上には、さきほどまで堂々とそびえ立っていたはずの群青色と灰色が混在した透明の巨大な秤が、土台部分をそのままに、支柱は横倒れになっていた。
「わ……。わ、わ、私の……剣でもある…………天秤が…………」
カルスの隣には、同じく宙へ逃れた天使の姿があった。彼は、さきほどまで絶叫し悲痛な叫びを上げていた。しかし、今は顔面蒼白。無理もなかった。天際の天秤は、彼の言う通り、元は彼の愛刀・英雄の剣であった。それが真っ二つ。
カルスは、その持ち主であるランベルセに対し、何と声を掛けてやったらよいのか。いや。それどころか彼に対し、どんな感情を抱くべきなのか。曾て、天才軍師、と異名を取った彼にさえも分からなかった。ただただ、気の毒、としか。その気持ちすら、しばらくしてから何とか湧いたのだった。
「しかしこれを一体、どうすれば……」
彼らの足元、地上には、器とそれを繋いでいる鎖がグチャグチャな状態になった巨大な天秤が、びろーーん、と倒れている。まるで大の字でぶっ倒れた巨人の憐れな姿のようだった。そんな神器。荘厳で壮麗な神から賜りし聖具。そんな神から賜りし神聖な物に対しても、しばらくは愕然としてしまい、言葉を失って見つめることしかできなかった。もう。本当に、なんて言えば。冗談でもご愁傷様、などとは言えない。隣の天使の顔などはもう見ることすらも出来ない。もしかしたら……彼は涙ぐんでいるかも知れない。いや。泣いてしまっている、かも知れない。そんな姿を見ることなど「怖くて」できなかった。
「あ、ごめんね。パルティシオン。天秤、折っちゃった」
「医院長は……凄すぎるよっ!! 最高神英雄者の力を結晶化した聖剣でもある天際の天秤を壊すことが出来るなんてっ」
そして。この。無邪気すぎる追い打ち。ルートヴィッヒ様、ならびに、レゼッタさんは二人共、笑顔だった。
「ほ……本当に恐ろしいのは。最悪神ではなく、最悪な身内なのかも知れません。ねぇ……」
カルスがそう呟いた時。ぽむっと胸元辺りで白い煙が沸き立った。と、同時に彼の腕に、ずしっと重い感覚がした。
「な……なんでしょう」
突然の重量変化に、腕に抱えていた存在をずり落としそうになってしまう。それを慌ててしっかりと抱え直し、彼は視線を自分の胸元に移した。
「も、戻ったのですか……?」
視線の先には、カルスの腕に抱えられていた、小動物となっていた少年が元の姿になっていた。
「あ……オレは……。も、戻れた……んですか……?」
「はあ。よくわかりませんが。しかし、体の様子や調子は大丈夫ですか? 雅沢君」
「は、はい……でも。あの」
「気分が悪いのでしょうか?」
「いえ……服が」
「え? あ……はぁ。そうですね」
天使は、勇聖くんが元の姿に戻ったら服を着せた状態にする、と宣言しておいたはずなのだ。約束を本人は、もう、果たせそうもない。そしてカルスも混乱していた。冷静沈着、という言葉が代名詞のような彼である。普段なら他者のフォローもできる人間なのだ。にも拘らず。それができなかった。様々なことが一気に起こってしまった。ある意味、あらゆる全てが最悪なタイミングともいえる。
別に悪い事が起こった訳ではない。ただただ。そう。何がどうなったのか、状況の理解をカルスすらも、正確に出来なかった。ひとつひとつは、落ち着いて思考を巡らせれば判断できる。でも。神の天秤が折れ、その持ち主が幽霊のように蒼ざめ、一方で、原因であるはずの人物達は嬉々とし、呪われた少年はそれが解け元の姿になった。
……。
しかしまずは一番大事なこととして。一人の少年が呪いから解放された。それを喜ぶべきだろう。いや。その前に、その彼が今、一番必要としていることを叶えることが先決。恥ずかしい状態からの脱却だった。
カルスは深すぎるため息を「はぁ~」と吐きつつ、光神の息子に、魔法で彼に相応しい着衣を仕立ててやった。普通の小学生の男の子が身に付けている、半袖Tシャツとズボンの姿に少年はなった。
「あれ~? 戻れたの、君。よかったね」
「うんうんっ。その服、似合っているよっ」
で。紫色の高貴な術使いの衣装を身に付けた人物と、黒衣の美麗な青年が、カルスの代わりに喜びの声とともに笑顔を向けていた。そうなのだ。たしかに呪いが解けたことは喜ばしい。喜んでいいことなのだ。嬉々とした声であってもいい。だが。もっと他に、違う人物へ向け、何か掛ける言葉は無いのだろうか。それどころかその笑顔。その表情を、今、この場で、彼らがしていて〝あり〟なのだろうか。
カルスは正直、これほど「悍ましい状況」を今まで味わったことがなかった。
「あの。天使さん。大丈夫、ですか……?」
そして、ようやくそんな言葉をカルスが被害者へ掛けることができた瞬間だった。天上界の誇り高き大天使は、ぴゅーっと地上に落下していったのだった。
「あれ? まさかウチの子。さっきの邪神と鉢合わせして、気絶しちゃったの?」
「恐かったのかも知れないねっ!!」
一体。どういう解釈で、そんな発言が出来るのか。
三代目大地の神であり、別世界では世界三大魔道士の一人として数えられる偉大な人物、そして曾て「魔王の息子」などと恐れられた最悪神の軍師まで務めたカルスであっても。この人智を超えた存在らの思考には。
「本当に。怖いですねぇ」
としか。言えない。言えなかった。むしろ。人智を超えた思考など知りたくも無かった。