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是鷹おじさんとぼくたち

初回掲載:2026年7月2日

登場人物

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《第1話 老人と死者と読書をする》

 ミーンミーン、と蝉の一匹が鳴くだけなら風情である。それも少し離れた所から。間近で複数鳴かれると騒音である。

 だが。まさにそんな木の下で、無心に本を読んでいる男がいた。

 木陰になるからと置かれた児童公園のベンチだった。そこに真っ白なワイシャツ、グレーのスラックスという恰好をした男が座している。彼は小柄で痩せていた。髪は白いものがけっこう混じり、顔には深い皺がいくつか刻まれている。しかし顔立ちは端正であった。但し、まるで猛禽類が獲物を狙うような鋭い眼光で、手にしている本の中の文字を追っている。しかも速い。この男は冷たい知性の塊であって、真夏の焼けるような日差しの中でも、怖ろしく寒々しい空気を醸している。誰も寄せ付けない雰囲気。誰もが近寄りたくもなかった。

 彼が腰掛けているそこは、椅子を設置した行政の思惑通り、たしかに丁度良い具合に木陰になっていた。風もそっと流れている。だから傍目では涼しく見える。けれど今日の最高気温は三十五度。現在の時刻は午後一時。そろそろ予報通りの気温へ到達してもおかしくない頃だった。

 しかし男は汗一つも掻かず本を読み耽っている。時折、組んでいる足を替えたり、背もたれに思いきり寄りかかって伸びをしてみたり。その様子だけだと、まるで冷房の効いた快適な書斎で、寛ぎながら読書を堪能しているかのようだった。

「おじさん。暑くないの?」

 そこへ麦わら帽子をかぶった男の子が一人やって来て、じっと男を見つめた。男の子は白と黒のボーダー柄のタンクトップに、チョコレート色の半ズボンを穿いている。そこから伸びている手足は、夏休みが始まったばかりだと言うのに、もうこんがり焼けていて、健康優良児そのものに見えた。

 けれど表情はなぜか憮然としている。口調もつっけんどんだった。そんな口調でもう一度「暑くないの?」と、目の前で読書を続ける男に言った。

 男はしばらく間を開け、それから少し顔を上げた。上目使いで男の子をジッと見つめ返す。

「君さぁ。君こそ、辛(つら)くないの? そんな所でうろうろしていて」

 男はそう言ってため息を吐く。それから再び顔を下へ向け、視線は本へと落とした。

「ぼくだってここに居たくている訳じゃないんだよ」

 男の子も不機嫌に答える。

「ふーん。だったらさ。自分でなんとかするなり、君の傍に居てくれたはずの人から離れなければいーんじゃないの?」

 何の気なし、といった声の調子で男は応えた。本当にどうでもいい、ただの会話。ただの読書の邪魔者。彼はいつもそんな態度であった。老若男女問わず。誰にでも平等だった。

 そんな男に、突然、真っ黒な影が落ちた。彼にだけではなく、日陰を作ってくれていた樹木も飲み込むほどの、大きな漆黒の帳が覆った。

『ぼくだって……ここに居たくないっ。でも……でもっ』

 歪んでくぐもった声。男の前から聞かれた。直前までは少年がいた。しかし彼の姿はなく、代わりに真っ黒でべちゃべちゃしている水溶性の何か、にしか見えない物体が、壁のように男の前で揺れていた。

「ここに居たくないの? だったら他所(よそ)に行けば?」

『でも。でもでもでも。ぼくは死にたくない。あの世も、天国も地獄もいやだっ』

「ふーん。あっそ。でもさ。それって私には関係無いことだから。然るべき人に訴えた方がいいんじゃない? 話くらいは聞いてもらえるはずだよ」

 真っ黒な物体は縁(ふち)が透けて、ひらひらしている。まるで黒い金魚の尾鰭のようだった。物体に手足は見当たらず、目や口、耳も無かった。けれど真っ黒でべちゃべちゃの何かは、男の言葉を理解し会話をすることは出来た。体のどこかには男の声を聞き取れる何かがあり、言葉を発する何かも、思考する部分もあるようだった。

『死にたくないのに。ううんっ。あそこにも居たくなかった。叩かれたり蹴られたり、怒鳴られたり。もうっどこにも居たくないっ』

 そして黒の何かは思考し、怒りの感情が生まれ、それを増幅させた。怒りの波動が大きくなるにつれ、黒い物体の大きさも上下左右へ伸び広がった。

「あのさ」

 男は「ふー」と、またため息を吐き、しぶしぶ顔を上げた。

「ちょっと、君。そういうの、うるさいんだけど」

 男はとても嫌そうな、忌々しいとも取れる表情だった。

「静かにしてくれない?」

 彼は目を細め、軽く睨むように目の前を見据える。そして自分の頬の傍に右手をもっていくと、親指と中指を弾いた。パチッと小気味いい乾いた音が鳴る。

『でもぼくはぁぁ』

 歪んでくぐもった声は、ますます捩れ語尾は低く曲がった雄叫びに変わった。不快な声だった。けれど、そんな声を上げた真っ黒なぐちゃぐちゃしている何かは、突然、ぼんやりとした白い光に包みこまれ、みるみる収縮していった。八方から中心へ向かってどんどんと小さくなっていく。

「それに、さぁ」

 ベンチに座っている男を覆っていた漆黒の帳も退いてゆく。男は再び背後の大樹が作った木陰の中に戻った。

「私はただ読書を楽しむ為にここへ来たの。折角の休みだから」

 そう言って「あ~あ」と欠伸を一つし、再々度、本へと目を落とした。

 周囲も平穏さを取り戻した。いや。正常に戻ったというべきか。五月蠅(うるさ)い、蝉。八(う)月(る)蝉(さ)い、と、当てても問題無い気がする。そんな彼らも元通り喧(やかま)しかった。

「――閣下。相変わらず容赦ない振る舞いをなさいますな」

 そのすぐ後だった。ベンチの前で低い柔らかな男の声がした。

 座っていた男の方は、右腕をベンチの背もたれに伸ばして、もたれ掛り、その背もたれにずるずると背中を滑らせて腰を椅子の縁に留め、ほぼ寝そべるような格好をした。そんな彼の足元には、仄かな白色光を放つ水晶玉のような物が転がっている。それにもまったく気を留めず。はたから見れば大変だらしのない姿であった。

 その目の前に、いつの間にか人の気配がし同時に、サァーッと涼風が駆け抜けた。

「憐れむとか悼むとか。そういった気持ちが無いのですか? 貴方という人は」

 風が去ったあとに現われたその人は、すぐさまその場にしゃがみ込んだ。

「ちょっと。なーに? いきなりやって来たと思ったら文句を言うなんて」

 ベンチに座っている男は抗議をした。だがそれは欠伸を一つ混ぜてのおおよそ暢気なもの。抗議というより愚痴めいたもの。それを目の前の唐突に現われた、こんもりとした黒い物体、のように見える人物へと投げた。けれど抗議された相手もしゃがんだまま、ベンチの方へは見向きもしない。

「大体さ。アナタこそ職務怠慢で、まともな仕事も出来ていない分際のくせに、よくそんな偉そうなことを言うものだね」

 ベンチの男は更に素っ気ない口調で言った。

 一方、現われた黒い人物からはついに「はー」と深いため息が漏れた。

「閣下。別に私は職務を疎かになんてしていないさ」

 しゃがみ込んでいた男はようやく体を起こし、ベンチの前で立ち上がった。彼は頭からつま先まで真っ黒な衣に身を覆っていた。顔と手の部分が白い素肌を覗かせているくらいの、ゆったりした衣に身を包んでいる。

「第一、閣下。私は職務に忠実だから、こうして彼を保護しにやって来たんだよ。死んで間もない生命を然るべき場所へ導くこと。導くためには地の果てまでも追いかける。だからここまでやってきた。どうだい? 実に職務に対して忠実な行動だろう」

「ふーん。アナタの方が減らず口だと思うけど。ヒナリ・コートク」

 ベンチに座っている男は「やれやれ」と、首を大袈裟にゆっくり左右に二度ほど振る。ようやくそれから、目の前に立ちはだかった新たな壁を見上げた。真っ黒なフードから見覚えのある顔が覗かれた。少し彫が深い顔立ちをした碧眼の男。自分と同様に頬は張りが無く、目尻や笑筋辺りには細かな皺が見える。しかし顔のバランスはとてもよく整っている。だからこうして年を重ねたところでも「佳人」。今でも言われている。その為、フードから少々出ている長い青い髪も、その言葉を引き立てるように見えた。

 そんな黒衣の老〝齢人〟の左手には仄かな白い光を宿す珠(たま)が収まっていた。それはベンチに座る男が足元に転がせておいた物だった。

「その珠が欲しいの? だったらあげるよ。そしてもうそれが手に入ったんだから、とっとと帰りなよ。大体、珠拾いが職務の一環だなんて、天界執行役(てんかいしっこうやく)は楽な業務ばかりでいいね~」

「閣下。相変わらず自分の気に障るものへ対する態度が至極横柄ですな」

「そうだよ。当たり前でしょ? 私の読書の邪魔をしたんだから。私もさ、本業を引退し、今じゃボランティアの日々を送ってるの。献身的で他人のために生きてるんだよ。そんな私の休日なの。わかる?」

「だがね、閣下。申し訳ないが、もうひと働きを。この術を解いて頂かないと」

「え? なんで」

「なんで、とおっしゃられてもね……。貴方以外でこの術を解くことが出来る者は、此の世でも彼の世でも誰一人としていないからね」

「ま、そうだけど」

「わかっていらっしゃるなら尚のこと御早めに。ルートヴィッヒ閣下」

「もう。ホント、相変わらず私に対する敬う気持ちが欠片も無いなぁ。ヒナリ・コートクは」

「ゼロだからねぇ、貴方に対するそういった気持ちが。だから致し方無いだろう」

 ベンチに座る男は、ようやく本を閉じると「はぁ~。ホント失礼だなぁ」と言いながら、目の前に差し出された淡く白色に発光する珠を見た。たしかにこれは自分の術によって光珠となっている。球状の結界。この中には凶暴化した〝死して間もない生命〟が封じられている。しかしそうしなければ、その死した生命は負の感情を爆発させ、大暴走し、大暴れしていたはず。だから真っ当で適切な処置をした。文句を言われる筋合いはない。

 しかし現われた漆黒の衣を纏っている人物の言い分も、無論、男には分かっていた。結界に抑え込んである生命も、次の生へと往(ゆ)かねばならない。それが法則であり、又、その法則が滞らないよう見守っているのが、黒衣の連中の仕事。つまり、今、この球体に閉じ込められている生命は〝滞らされている〟状態なのだ。あらゆる生命の中で、〝一番の術使い〟が作った結界によって。

「はいはい。解除してあげればいいんでしょ、解除を」

 ベンチに座りながら「はーい。ちちんぷいぷい、元に戻れ~」と、男は右手の人差し指をクルクル回してから光る珠へ指を差した。その指先には碧い光が宿ると、光珠へ向かって碧の輝きがキラキラと流れ込む。珠の全体が光で包み込まれると、大きく碧色に発光した。瞬間。パリンッと澄んだ音を響かせ、珠は粉々に砕け散った。まばゆい碧い光もその後すぐに収まる。

 そして黒い衣の男の足元には子供がうつ伏せに倒れていた。さきほどの少年だった。

「貴方という人は、本当に嫌な性格をしている」

「そう? はい。でもお礼の言葉」

「そういう所が尚のこと嫌なのだよ。しかし言わせていただくしかない。ありがとう」

「どういたしまして」

「まったく。こういうことを簡単に遣って退けてしまうのだから、我々の仕事に手を貸してくれても良いと思うが。どうせ閑(ひま)なのだろう? 悠々自適な隠遁生活を送っているのだから」

「ちょっとちょっと。勝手にそう決めつけないでくれる? 私だって毎日やっと生きているような老人だよ。見て分かるでしょ」

「見た目は、だろう? 本物の老人たる私とは違っている」

 黒衣の男はゆっくりとした動作で、足元に倒れている少年を両腕で抱き上げた。「よいしょ」と声に出し、全身に力を込めて。

 そんな黒衣の人物と比べれば、読書老人はまだ体を滑らかに動かせる。たしかに見た目が老化をしているだけ。しかし本当のところは。表に出ていない、中身、能力だって分からないものだ、と口には出さなかった。

「閣下。結界でこの子を保護し、その上、悪感情を治める為の浄化術を同時に掛ける。実に執行役向きな能力だ、貴方の力は」

 背の高い黒衣の男がこちらを見下ろしているので、読書人はそれを見上げなければならなかった。でも結構そういう時は、見た目だけの老人であっても、多少、首が軋む。

「あのね。私は、何でも出来るの。だから執行役に特化した能力の持ち主ってワケじゃないの。わかる? あらゆる業種の、あらゆる技術に長けている、何でもこなせる人物なの。だからアナタの申し出だけを聞き入れる訳にはいかないの。一つだけ特別扱いをすると、全業種の全役職からウチに来て欲しいって言われてしまうでしょ? でも私のモットーは平等。だから私の力を執行役だけに使ってあげる訳にはいかないんだよ。ヒナリ」

「ならば全役職の力になったらどうだい、ルートヴィッヒ・ランベルセ大公爵閣下。それならば平等だ」

「あー。それは駄目だよ。だって私、もう天上界二位の位置も、公爵の地位も、全て廃業。全部、息子に譲ってるんだから。知ってるくせに。だからこうして隠遁生活の中で、ボランティアするためニンゲン世界へ出向いて、時々、大好きな読書をしているの。もう立派なリタイヤ組ってやつ~」

 彼は「ま、そういう訳だからさ。もうアナタはあっちに行きなよ」と言って、持っていた本を開いた。表紙にはHjärnstark:hur motion och träning stärker din hjärnaと書かれている。

「相も変わらず酔狂なことを」

 黒衣の男は、ため息交じりに視線を自分の抱える子供へと移した。するとちょうど彼が目を覚ます。瞼をこすり、うーんと小さく唸っているところだった。

「大丈夫かい? 目を放してすまなかったね」

「……おじちゃんは……」

「もう心配はいらないからね。これから明るくて、少し騒がしい場所へ行くよ」

「明るいところ……? そこ、こわくない?」

「怖い場所ではないよ。ただ知らない人は大勢いるし、大人も子供も色々いる。でも、君をいじめたり怒ったりする人は一人もいない。そういう場所さ」

「ほんとう……?」

 少年は顔を曇らせた。そして見つめていたヒナリの顔から目線を少し逸らす。

「そこ、こわい人がいないって、ぜったい?」

「ああ。絶対。みんな,君と同じだから」

「同じ? どういうこと? みんなもママとパパに叩かれたり、蹴られたりしてたの?」

「そういう同じ、ではないんだけどね。みんな頑張っていた、って意味で。同じってことかな」

「がんばったの? 何を?」

「生きることを」

「頑張って生きていたの? ぼくもがんばっていたの?」

「ああ。私は頑張って生きてきたと思うよ、大輝くんのことを」

「痛かったり苦しかったり、寒かったり熱かったりしたことが、がんばったことなの?」

「そうだね。そんな痛かったり苦しかったり、寒かったり熱かったりしても。生きることをあきらめなかった事と、自分自身をイジメなかったこと。それが頑張ったことかな」

「おじちゃんの言っていること、ぼくにはよくわからない。むずかしくて」

 少年は顔を逸らしたまま喋っていたが、また黙る。少しそのままでいて、しばらくしてから顔をヒナリの方へ向けて話しかけた。

「ぼくはがんばってないとおもう。悪い子だったとおもう。だからパパやママに怒られて、はたかれたり殴られたりしたんだ。だからがんばってないよ」

「そんなことはないよ。それに大輝くんはちっとも悪くない」

「どうして? ぼく、わるくないの?」

「うん。そもそもパパとママになる人は、自分の子どもが悪い事をしても、その子が苦しく思うようなことはしない。叩いたり殴ったりはしてはいけないんだ。そういう決まりなんだよ」

「え? そうなの? でもぼくのパパとママは……はたいたり、けったりしたよ」

「それは心が病気になっていたからなんだよ」

「ココロがビョーキ?」

 彼はきょとんとした表情になった。

「どういうことなの? ココロって、風邪をひいたり熱を出したりするの?」

 少年にはヒナリの言葉が想像もつかない。目をまん丸く見開いて、不思議なことを言う見知らぬおじさんを見上げていた。

「そうだね……。具体的に心がどんな症状になってしまっていたのかは、おじちゃんにも分からない。でもココロが健康で、元気でなくなってしまうと、頭をおかしくしてしまう。概ね健康だと、子供に優しく世話をしたり、しっかりと躾けたり、人間として必要な道徳を教えられるんだけど。病気になるとそれが出来なくなってしまうんだ」

「えっ。じゃあ、アイツとママは病気になってたから、ぼくをたたいたりけったりしたのっ。ココロがビョーキになって、ビョーキだからっ。そうなのっ」

 少年は自分を抱えている黒衣の男の腕を掴んだ。とても興奮している。

 そして掴まれた方は「わあぁ」と、バランスを崩し、そのまま前へと倒れ込みそうになった。だがその寸前で踏みとどまる。

 けれど少年の方は彼の腕からするりと抜け、しかし、地面へと軽やかに両足で着地した。

「おじちゃんっ。二人はビョーキで頭が変になったから、ぼくを殴ったの? 引っ叩いたり、あっついお湯とか背中にかけたりしたの!?」

「そうだね。心が病気で悪くなると、頭がちゃんと働かなくなって、ふつうの行動が取れなくなってしまう。おじちゃんを見たらそれがわかるだろう? おじちゃんは今、心が概ね健康だから、頭がおかしくなってない。だから君に対して親切に出来ている。君の話もちゃんと聴ける。実際、君が何を聞いて欲しいのか、それも分かって、しっかり聞けてるだろう」

「たしかにそう……だね」

「うん。でもこれが、心が元気を無くして健康ではなくなると病気になる。病気は頭をおかしくする。もともと、心と頭とつながっているからね。というか、心と頭は同じだと考えてもらっていいんだ。だから心が健康じゃないと、当然、頭も健康じゃなくなる。健康じゃない頭は正しい判断が出来なくなって、変な判断をしてしまう。その結果、君が色々と痛い目に遭わされたり、苦しい目に遭わされる事へ繋がってしまったんだよ」

「だから……だったのかぁ」

「うん。パパとママ、二人とも、ね」

 少年はその場で俯いた。


「――ほ~ら。だから人間はしっかり運動して、脳ミソを健康に保たないとダメんだよ。この本にはそれが懇切丁寧に書いてあるんだよ」


 突然、本を読んでいた男が口を開いた。相変わらず何の気無しの、軽々しい口調で、適当に会話に混ざってきた。そういう調子だった。

「今回の原因はさ、脳ミソの健康を維持できていないから、親たちは君に対して〝自分の命の危機を齎す者、命を脅かす不届き者〟って狂った判断をした。親らは感じた。勿論、彼らはあらゆる総合的な判断で、そんな結論に至っている。別に君が包丁や武器を持ち出して親を襲う、っていう意味の危険を親たちが感じた訳ではない。そんな短絡的な話じゃないよ。

 つまるところ親も人間であって、〝自分が生き長らえるために『邪魔になるもの』は、排除したい〟ってことが全ての始まり。たとえ自分の子供であっても、どこからどう見ても自分より弱そうな生き物に対しても。一度『邪魔だ』と思えば、その『邪魔になるもの』を取り除きたいと思って攻撃をするんだよ。人間はさ」

 ベンチに座っている男は、読書を続けながら何のことなく言った。そして「だから運動をして脳を活性化させ、理性で物事を考えられる脳へと鍛えた方がいいんだよ」と付け加える。

「そもそもさ。現代のニホンジンは、自分自身を楽しくさせないと生きてはいかれない、って言い張るでしょ? 大人になっても楽しいことばかりしかやりたがらない。つまり楽しく生きないと損。自分の人生なんだから『自分の為に使わないと』ってものすごく強く思っている。利己的だよね。

 指導員であることをほっぽらかす。教えることから逃げてるニンゲンだらけ。ううん。そんなことが言える御仕着せなニンゲンの方がよっぽどマシ? いや、全然マシじゃないけどさ。

 毎日、自分だけが何となく生きていられればそれでいい。楽しくないことをやるなんて、人生がもったいない。他人のために生きるなんて人生の無駄。そうだな。他人は、自分にとって都合が良いものか、それとも邪魔か。その二択でしかない。親も子も、恋人も友人も、利用か害悪か。損得の存在でしかない。ニンゲン、それを打算して毎日、一生懸命みんな生きている。

 そして。今回、君が死んだのは、その考えに基づいて出した結論。君は不要。親ぶってた二つの生命が出した答え。よって淘汰された。自分の生命が優先。小さかろうが、弱かろうが、子供であろうが、邪魔。自分たちが生きるために。ホント、利己的だよね~」

 彼はそう言いながら「ま、それはともかくさ。歩いて認知症の発症を抑えられる効果があるなら、認知症になって徘徊をし回って数キロ歩く老人は、徘徊のたびに認知症が少しずつ改善する……? あ、でも抑止であって改善は無理か」などと読んでいる本に対し、ぶつぶつ意見をしている。

「ぼ……ぼく…………」

「え、いや。このおじさんは、ね。その。頭が誰よりも狂っているから」

 黒衣の男は少年が言葉を発した時、ようやく我れに返った。でも沈黙せざるを得なかった。その時間がどれくらいかは分からない。ほんのわずか。しかし永遠と感じる長さ。まるで時空間に歪みが生じ、自分とその周りだけ時が止まったのかと思った。そして隣で俯いている少年を見る。

「な、なんと……」

 再び黒々しい煙のようなモヤが、少年の全身から湧き出した。彼を包み込むように取り巻き始める。

「これはいけないっ」

 黒衣の男は少年の肩へと手を伸ばす。その手には淡い白色の柔らかな光が宿っていた。その手で子供の右肩へと触れようとする。だが触ろうとした寸前、バチバチと音がし、まるで感電したかのような強い衝撃が手のひらに走って、ばちんっと弾き返された。

「いよいよもって不味い」

 天界執行役ヒナリ・コートクは内心焦った。そして、目の前で悠長に読書をしている貴人変人に対して本気で呆れた。いや。恨めしく思った。焦りと呆れと恨事の念。こちらも黒い瘴気を体から放ちそうな、そんな心持ちにさせられた。

「ハセ・ダイキくん。君に悪い所なんてひとつもない。悪いのは君の周りにいた大人たちだよ」

「……ぼ……くは…………」

「新しくやって来たパパぶっていた男と、その男に逆らえないママ。しかしそんな二人から、君がもう辛い思いをさせられることは無い。だから安心していいんだよ」

「ああ…………ああぁぁぁっ」

 少年を中心にグワッと大きな風が周囲へ抜けた。再び、黒いベチャベチャな水溶性の壁のような何かが、彼のいた場所に揺らめいていた。

「なんてことを」

 ヒナリは後ずさる。と同時に、柄の長い白銀の大鎌を右手へ喚んでいた。

 ベンチの周りもまた闇夜のような帳に覆われる。木陰も飲み込まれ、暗闇よりも深い漆黒の壁が、ヒナリと読書をしている男の前に影を落とした。

「ちょっと。本当になんてことをするのさっ」

 そうした状況に、読書に興じていた男は本から視線を放し顔を上げた。

「暗くて文字が読めないでしょ、そんな風に壁になられると」

「閣下っ。それは貴方が招いた事態だよ」

「はっあぁ~~? そうじゃないよ。穢れた心になってしまった生命を結界から解き放て、ってお前が言ったから、こうなったんじゃない」

「穢れた心って……貴方が煽るから」

「何言ってるの。この生命は死んでいるんでしょ? そんな区切りの着いた生命を来世にいち早く連れて往くのがお前の役目。それをちゃんと定刻に迎えず、地上で迷子にさせた。しかも取り逃がした死んだ生命は、生前も死んだ瞬間も、酷く心が苦を患っている者。そんな苦しんでいる状態の生命を彷徨わせているなんて、大いに職務怠慢じゃないの? もしも私がこの子と出会わなければ、もっと長時間苦痛に喘ぎ、結果、地縛霊として土地に固執したり、心弱き状態になっている生者へ襲い掛かり、危害を加えていたら。どう責任取るの? そうなっていたら、それこそ大失態じゃないの。ヒナリ・コートク」

 そう言ってベンチに座る男は、また右手の親指で中指を弾いた。パチッと澄んだ音が響く。その直後。彼らの前の大きな黒壁は真っ白な光に包まれた。かと思うと、あっという間に大人のこぶし大の透き通った青い珠がヒナリの足元へと転がった。

「手緩いんだよ、お前は。あのさ。死んだ生命を心穏やかにし、天へと連れて逝くのが天界執行役の仕事でしょ? だから、優しい言葉や善き波動、明るい心持ちで死者に接することが鉄則。そして暗く苦しみを抱いた区切りの着いた生命には、安穏な心へと解きほぐし、天上へ連れて逝くこと。それすること。それが死神の仕事。それが出来る。それが死神を仕事として良いとされる者の資格。そう取り組む姿勢を何百年とお前はやってきている。

 でも。今は違う。こうして迷子にしたり、地上を彷徨わせている。それは駄目だよ。一番あってはならない大きな間違い。目を放した隙に、生命が風によって攫われてしまった。結果、その間、この苦痛に満ちている生命は、より苦しみを増幅させていた。勿論、私のせいでは無く、自分が生前に抱えた感情で。お前の取り逃がしは、いち生命にひどい苦悶を与え続けたってことなんだよ」

「……それは」

 ヒナリは足元に転がっている青い珠を見つめた。

「今度は誰でも解けるような結界にしてある」

「……申し訳ない」

 彼は青い珠をそっと拾い上げた。

「いいよ。でも早く連れて逝きなよ、その子。道草させられてた分、すごく疲れただろうから」

 ベンチに座っている人は再び本を開いた。視線を落とすと、すぐにそれは文字を追っていく。

 ヒナリは小さく息を吐いた。

「すまなかったね、閣下」

 そう言い、ベンチに背を向けた。人間界の強い日差しがいつもより眩しく感じられる。ギラギラと照りつける太陽の光は、天上人たる彼には強すぎた。

「君もさ、もういいんじゃないの? よくやったと思うよ」

 背中越しにそんな声がした。

「君の育てた弟子たちは、今、立派に成長し、申し分ない執行役になっている。だからもう良いと思うよ。君がいつまでもそんなふうに迷子の死んだ者を追っかけなくてもさ。私のように本を読んだり、奥さんと出かけたり、のんびりしなよ」

 と、併せて「ふわ~あ」と欠伸が混じる言葉が聞かれた。

「良い仕事だとは思うよ、死神なんて」

「そうだろう。だからなかなか辞められなくてね」

「でももういい頃合いだよ。よくやったよ、ヒナリ・コートクは。区切って大丈夫だよ、その職を」

 ヒナリ・コートクはここ最近、自分の老いと〝その時〟のタイミングを考えていた。結局、その物思いに耽いったわずかな瞬間に、天へと召されてきた生命を取り逃がし、迷子にさせてしまった。風に攫われた。その風は地球を取り巻く大気によって起こされたものではなく、人間の感情が起伏をすることで湧き起こる風。その風に肉体から離れた生命は吹き飛ばされてしまう。たまにそういうことが起こる。

 しかし今回の吹き飛ばされてしまった生命は少々問題があった。亡くなる前から大きく心を傷めていた。だから亡くなったタイミングで、天から迎えに行った天上の役人、天界執行役――死者を迎えにゆく役人であるため死神と呼ばれる――が、その心をケアする必要があった。それをヒナリは結果として怠ることになってしまった。今まで、一度たりともそんなことはなかった。

「そうだね。この子には悪い事をしてしまったよ」

 ヒナリ・コートクは左手で優しく青い珠を撫でた。するとそれは一瞬だけ輝きを放つと、彼の腕に男の子の姿が現われた。少年は目を閉じているが、顔は少し強張っている。本当に可哀相なことをしたと思う。

「本神殿へ着いたらペロペロキャンディでもあげれば大丈夫じゃない?」

「ああ。そうさせてもらうよ」

 そう答えるヒナリは自らに術を掛けた。彼と少年が青い光に包まれる。

「この本てさ、面白いんだよ。年老いても、まだまだ脳味噌が開発され、老化をどんどん遅らせることが出来るって、たくさん書いてあるんだ。今度貸してあげるね~。君もスウェーデンって場所の言語は読めるでしょ?」

「そうだね。人間界を担当して五百年だから。大概の言葉は分かるさ」

「やっぱり原書は著者の声がダイレクトに響くから良いよね」

「ああ、そう思うよ」

 ヒナリは振り返ることはなく、青い光が強まりやがて景色を変える瞬間に「じゃ、時間がたっぷりできた頃に私の屋敷においで。歓迎するよ」という言葉をしっかり聴き取った。

「そのうち。すぐに」

 完全に景色が、清浄と穏やかな光に包まれた場所へ変った。柔らかで心の底からじんわり温かさを感じる光の降り注ぐこの場所。天上。ヒナリ・コートクは抱えた小さな生命と共に、大きな白亜の神殿へと入っていった。



               老人と死者と読書をする・了